ゼロ年代の現代思想入門『脳がわかれば心がわかるか』山本+吉川
YouTube「哲学の劇場」の山本貴光さん、吉川浩満さんの本です。
心の哲学の解説書として、わかりやすさに圧倒されたのでシェアをしたい。こういうの探してたんです。
ゼロ年代に発売して、2016年に増補版が発表されたこの本。それは2023年までの哲学思想をまとめるような内容でした。
この本の構成は、まず心の哲学(20世紀的)を定義して、それをカント(18世紀)の二律背反でまとめて、それを基にしてフーコーのような権力論(21世紀)を展開するものです。
では、要約を。3500文字、長い。
1.心の哲学の分類
下の表で4つに分類されるのが、心の哲学です。
唯物論は、人間を顕微鏡で観察すれば自然科学で説明できるというような立場です。これは、2種類に分かれます。
物理主義的唯物論:脳がわかれば人間がわかる
創発主義的唯物論:心は脳という物質から(システムの中で)創発する。
創発主義的唯物論は、やや穏健派の唯物論です。
重要なのは、二元論です。ここは3種類挙げられています。
相互作用説:デカルト『人間論』
平行説:スピノザ『エチカ』心と物は交わらない
随伴説:チャーマーズ『意識する心』クオリア(茂木健一郎)こそが真の難問(ハード・プロブレム)であるという立場。
ここまでが、心の哲学のアウトラインです。証明できるような事実は無いので、正解は(まだ)無いということです。
さて、『サイファ覚せいせよ』宮台・速水では、科学が自然法則によって説明できるようになれば、その根源的な謎が可視的になってしまう。これは何か。
2.心の哲学は、二律背反する
カントの第三アンチノミー(二律背反)が紹介されて、心の哲学との関連が示唆されます。
二律背反とは、正と反の2つの命題が、共に正しい場合、相矛盾する概念がせめぎ合うことです。
もう少しくだいて説明すると、世界の始まりを考えます。それを宇宙の始まりとします。宇宙の始まりは物理学によって、何となく理解されています。ところが、その始まりを経験した人間は、多分いない。138億才ですから。(宇宙が、正しい例えなのか解らないのですが)
このように、科学による説明と、私たち人間の体験では、矛盾するような概念がある。
始まりはあって、始まりが無い。これが世界。宇宙。
純粋理性批判以下、3批判書は二律背反によって記述されます。
日本の思想家を3人登場させて、カントを補完します。人と(あらゆる)物の関係性を捉えます。
柄谷行人『倫理21』。アンチノミーには、人が物事を考える際に二つの態度が反映される。
大森荘蔵の「重ね描き」では、科学は日常を人と違う流儀によって記述している。(感想:科学と人の二項対立だが還元できないもの。)
大澤真幸『生きるための自由論』によると、大森の問題は、論理を用いると日常が先で科学は後。科学的描写は、日常というキャンバスに描かれるのみ。(感想:二項対立は論理で考える倫理)
このような考え方は、端的にはフッサール「生活世界」と関連しています。後期フッサールは、中期の現象学的還元『イデーン』以降の思想ですが、生活世界は日常を意味します。
まとめとして、脳中心主義批判です。
日常からの情報遮断は『バカの壁』養老孟司さん。これは、エコー・チャンバー現象と関連しているように思われます。知りたい事以外は知りたくない、というスタンスは陰謀論につながります。
アフォーダンスの身体性としてギブソンなども紹介されています。
3.フーコー「社会の脱構築」とドゥルーズ「存在の脱構築」
君主型、規律型、コントロール型の3種類を挙げて権力論について論じています。
君主型ですと、政治とは「全員を拘束してしまうような事柄を決めること」橋爪大三郎。ウェーバーの権力についての定義だと思われます。
垂直型の組織が規律型。
コントロールの管理社会では、リッツァ『マクドナルド化する社会』では、長く座れない居心地の悪いイスによる管理もあります。
コジェーヴを参照する東浩紀『動物化するポストモダン』では、過去のオタク文化を批評していました。現在では、オタクの民主化なるものが図られて、個人で趣味を楽しんでいく多様性が確立されていると思います。
全体をまとめます。
まず心の哲学(20世紀的)を定義によって人間が、物であるか心であるかは解らない部分がある。
次にカント(18世紀)の二律背反を考えました。これによると、正と反の二つの命題によって、お互いに矛盾することによって、それが何であるか解らないことがある。
最期に、これらを土台にしてフーコーのような権力論(21世紀)を展開するものです。権力論も、それが何であるかわからない。国家の権力を考えればよいのですが、国家が何であるかは非常に難しい問題です。なぜ正統性があるのか。
要するに、心の哲学とポストモダン的な権力論、これは、カントの自由を検討していく思想だということです。考察する対象が変わっても、同じく二律背反がつきまとってきます。もちろん、ポストモダンは、それを乗り越える戦略だとは思います。(二項対立の解決によって二律背反を感じ取る営み)
カント的な哲学思想から完全に自由になろうとする考えもあります。『現代思想入門』千葉さん的には、カンタン・メイヤスーになると思います。
(社会と存在の脱構築は千葉さんの現代思想のくくり方です。)
最後に、感想パートとして、様々な思想家について取り上げてみます。
4.感想パート「ゼロ年代の現代思想入門」
本書で取り上げている思想家を考えます。
社会学者小室ゼミの3人。橋爪大三郎、大澤真幸、宮台真司の3氏。(1で言及したサイファの根源的な謎は、二律背反で説明されるのではないでしょうか)
社会学の前提は、もちろん社会。科学の発達により近代化が進み、物理・数学が強調されることで、経済学の進撃により学際的な営みとして社会学が誕生します。
人間と社会の二律背反。
社会学的な前提で思索するのが、マルクス・ガブリエル。彼は、ウェーバーからルーマン(システム論)を引用して、宗教社会学的な倫理を目指します。ウーバーの斎藤幸平氏は、彼の日本への紹介者の一人でした。
『世界は存在しない』では、世界はメタのメタという考えをテーゼとしています。続編『私は脳ではない』は、心の哲学の主流派が、物理主義(唯物論)に偏っていることを批判します。チャーマーズの二元論的な立ち位置にも概ね同意しています。
宮台氏から影響を受けたのが東浩紀氏。分析哲学を、わかりやすく解説したうえで、独自の思想を展開しています。精緻な筆致と明晰さは、特別な存在でした。近年では動画プラットフォームを運営。
東さんの影響が強いのが千葉雅也氏です。独自性に注目しているのだと思います。千葉さんはドゥルージアンとして社会に切り込み、一方でメイヤスーは過激派で、祖先以前性という思考実験によってカント以降の哲学思想を鋭く批判します。(カントをプトレマイオス的転回と矮小化します)
ガブリエルはメイヤスーに否定的です。ガブリエルは、ドイツ思想を原点として、フッサールやニーチェの哲学が示しているその可能性を説いているので、比較的穏当な哲学者といえます。過激と穏当という二項対立は、それぞれ良い悪いがあると思います。(独自と普遍ともパラフレーズできる)
ガブリエルに関連するのは、いわゆる『イタリアン・セオリー』のフェラーリスと言われます。イタリアの思想家で有名なのは、ジョルジョ・アガンベンと『帝国』ネグリ、ハートでしょうか。
アガンベンに関しては、本書でも言及されているのが剥き出しの生。人間らしくて文化的なものを棄てて生きることはできないという点を、社会の変化を批判し炎上しました。数年前のことです。今では、肯定的に捉えられると思います。
彼は、フーコーからアーレントの政治哲学について歴史軸の断絶を『ホモ・サケル』プロジェクトとして展開しました。
ドゥルーズ主義として、國分巧一朗さんもいますが、彼は、ハイデッガーからドゥルーズというような思想を、スピノザを経由してハンナ・アーレント(政治哲学)に向かう思想です。実際的な問題意識が協調されます。
最後にチャーマーズについて言及すれば、二元論的な心の哲学を展開しますが、そこから離れたテクノロジーの問題も包括的に扱います。人間存在は、スマホが補完するものだとしたら、VRとAIのようなテクノロジーとの有機的な営みとしての意識によって人間の存在は定義されるかもしれません。
近著が日本でも発売されましたので、是非読みたいです。