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ただ、ひとつだけ気になることが残る。私には両親と兄妹がそろっていた。帰ろうと思えば帰れる家族の小宇宙というものがあったのである。唐牛にないものが私にはあった。実際には、家族がなにか計量しうる効力を発揮するのは、貨幣とか権力によってであり、私の家族はそういうものとは無縁である。しかし、家族があるという感覚それ自体が、人生のぎりぎりの地点で効力を発揮するのだと私は思う。孤独の深さや大きさが画然と異なってくるのである。呑気に惰眠をむさぼることができる場所があるかどうかが決定的な作用
全学連委員長になって上京して以来、唐牛が飢えから解放されたことは一度もなかったといってよいだろう。この方面の問題について、ブントの連中は酷薄なまでに相互扶助の精神を嫌った。みんな自分のことで精いっぱいだったともいえるし、相互の自立を重んじたともいえるが、もっとざっくりいえば、自分のことしか考えぬエゴイストが大半だったということである。さらには、かつての同志が社会の階梯から滑り落ちていくのをみることに、いわば自己安堵の快感を感じるものもかなりいたというのが私の判断である。唐牛な
私は、自分のなした軽率や醜悪について、意識してやったことであるから、後悔するところはない。それどころか、もしそれらをくぐりぬけなければ、私は単なる吃音男でおわっていたであろうと確信している。言葉の吃音のみならず、精神の吃音が悪化していたであろうとすら推測される。極端な物言をあえてすれば、ちゃちな闘争ではあったが、信頼と裏切、理想と現実、希望と絶望、勇気と怯懦、その他さまざまの人間存在における二律背反の基本型を味わうことができたように思う。だから私は六〇年安保闘争に際会できたこ
あとで判ったのだが、パルタイ加入は人生の岐路であり、そうあっさりと応諾するのは奇異な行動であったらしい。おまけに、最初の細胞会議で新党員 の紹介があったとき、「自信はないが、テロリズムに命を賭けることができるように、頑張りたい」というような挨拶をして、いっそう奇異な奴と思われたらしい。「テロリズムなんかは臆病者のやることだぞ」と坂野潤治に叱られて恐縮していた。 西部邁『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』(文藝春秋、1986)
没落が間近に迫っているにもかかわらず、ブントには明るさが、漲るというほどではないにしても、つきまとっていた。ブントは、自分の虚妄については鋭敏であったのだが、それを自己否定の暗さにもっていくようなことはしなかったのである。正確にいえば、自己否定に並んで、明るく頑固に自己を肯定しようとしていた。今にしていえば、自己否定と自己肯定のあいだに際疾く平衡を保つこと、それがブントの精神の型であるようにみえる。 西部邁『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』(文藝春秋、1986)