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山城と番場によれば,「少年たち」の章で注目すべきなのは,実はジューチカという犬の「復活」の場面である。イリューシャはもともと,野犬の一匹をジューチカと名づけてかわいがっていた。けれどもあるとき,スメルジャコフに唆され,針の入ったパンを食べさせてしまう。ジューチカは泣き叫んで走り去り,そのまま消えてしまった。病床に伏せたイリューシャは,そのことをずっと気に病んでいる。そこでコーリャは,そっくりな犬を探し出し,イリューシャに贈ることにする。発見された新しい犬はペレズヴォンと名づけ
だとすれば,ここではもういちど,ジューチカの死がペレズヴォンの導入で乗り越えられたように,イリューシャの死についてもまた乗り越えの道筋が示されねばならない。そして山城と番場は,まさにそのためにこそ,ドストエフスキーはここで最後,コーリャにカラマーゾフ万歳と叫ばせたのだと考えるのである。番場は次のように記す。「イリューシャがイリューシャであったことが,そもそもまったくの偶然であった。新しい「よい子」がやってきて,父親とともに新しい関係を始めることは十分に可能なはずだ。よみがえっ
重要なのは,ペレズヴォンがペレズヴォンでありながら同時にジューチカでもありうること,イリューシャがそのような思考の可能性に気づいたことである。ジューチカがジューチカだったこと,考えてみればそれそのものが偶然だった。そもそもそれは野犬の一匹にすぎなかった。だからぼくたちは,ジューチカが死んだあとも,もういちどジューチカ的なるものを求めて新しい関係をつくることができるし,またそうすべきである。それが生きるということだ。山城はつぎのように記す。「ペレズヴォンがジューチカであることに