わたしと仏教の出会い
わたしは何度も仏教と出会っている。
お葬式のとき。
おばあちゃんがお経を唱えているとき。
数珠を買ったとき。
お寺にお参りに行ったとき。
お地蔵さんとすれ違ったとき。
身の回りに溢れすぎていて、存在が空気のように当たり前になっている、仏教。何かのお願いがあるときは、神社仏閣に行って、神様仏様に祈る、そういう存在。
しかし、ほんとうの意味で出会ったのは、
ある法話会になんとなく参加してから、
仏教にすこしだけ興味を持ち、初期仏教の瞑想会に参加したときだった。
瞑想には興味があったがきちんと取り組んだことがなかったので、そこで何かを学びたいと思った。
その場には、わたしと同じように初めてきたような人もいれば、常連さんみたいな人もいた。
瞑想指導は、そのお寺の長老が実施する。まず座ることを求められた。
座布団を半分にして、その上に軽くおしりをのせて、足を組んで背筋を伸ばす。
この時点で、わたしの背筋は伸びきらないし、足が痛くて集中できず、まともに座れていない。
その姿勢で、右手を左から右へ、右から左へ、とスローモーションで動かす動作に入った。わたしは、その動作を一往復で終えた。しかし、周りの人はゆっくり、その行為の往復を続けてやめない。
「はい。やめてください。」
そう号令がかかって、初めてその動作は繰り返さないといけなかったのだと知った。
長老が口を開いた。
「ここには、ケモノがいます。動作を一回やっただけでわかったみたいな顔をしているケモノが。」
それは紛れもなくわたしのことだった。
そのあとも、背骨を真っ直ぐにして前に倒すという動作をやるときに、猫背なのでまっすぐならなかったり、瞑想ができる状態にそもそもない、ということを思い知らされたのだった。
そんな状態にあるわたしに、長老はこんな修行のアドバイスをくれた。
毎日使うお茶碗を食器棚から出して、それを全く同じように戻す。(食器ではなく、書籍でも可)
部屋の隅々まで掃除機をかける
当たり前のことなのかもしれない。
だけど、わたしはそれを当たり前にこなせる自信はなかった。なぜならば、部屋を整理したりきれいにしたり掃除をしたりすることがそもそも好きではなく、苦手だったからだ。
長老は、わたしの座りかたや所作で、瞑想指導以前に、生活の修行が必要だと見破ったのだ。
瞑想指導中、厳しいことをいろいろ言われて、かなり精神的にへこんだ。
瞑想指導が終わって、長老はこう言った。
「厳しいことを言いましたが、あなたの人格を否定するものではありません。いわば心の癌が進行しているような状態です。今すぐ救わないと、手遅れになってしまう。」
心の癌。
恐ろしい状態だなぁ。
癌は気づかない時に自分の体の中にできて気づいたら死に追いやる病気だが、病院に行って検査したり、いまは技術も進んで手術で治る場合もある。
しかし、心の癌は、誰にも発見されないし、治してくれる病院などどこにもない。そのまま進行したらどうなるのだろう。
ケモノで心の癌。
これが仏教との本当の出会いだった。
それから家に帰って、改めてこの瞑想会を考えた。周りの人を見渡しても、足が痺れている人や、姿勢が曲がっている人や、途中で中断して帰ってしまう人などもいた。だけど、厳しく刺されたのは私だけだった。
長老とは言え、初対面の人からなぜここまでのことを言われなければならないのか、だんだん悔しくなってきて、瞑想会の前にあった法話会でその長老が話していることなど、信憑性が疑わしくなってきたので、仏教の本を手当たり次第読んだ。
その中でわかったことがある。
仏教が言っていることは大まかに二つしかない。
人生は苦である
人は必ず死ぬ
信じれば救われるとか、神様仏様がどうにかしてくれるとか、そういうことは一切なく、自分自身が、仏教に対して門戸を叩くかどうか、なのだ。自分が気づけば、仏教はいくらでも応えてくれるが、自分がそう思わなければ、仏教は私に見向きもしない。事実だけ淡々と説いている。
瞑想会に参加して、瞑想すらできない状態の私に、「ケモノで心の癌だ」と教えてくれた長老は、慈悲深い優しい師匠のようなものだ。
他にもケモノに該当する人はいたと思うけれど、言われもしなかった。言われるだけ、改善の余地があるのだ、きっと。
私はこの日から、ケモノであることを自覚して、人間になる修行を始めようと心に誓ったのだ。
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