yixinxiangfo

長野県在住。仏教勉強中。長野のことや、仏教についても書いていきたいと思います。

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マガジン

  • 一心向佛の読書記録

    書評をまとめていきます。

  • 一心向佛 わたしと仏教

    仏教に出会ってから心の成長が始まりました。自分が出会った仏教について書いていこうと思います。

最近の記事

『仏教の事典』を読む

仏教を知りたい私は、物心ついた時から、お釈迦様の絵本や親鸞の絵本を読んだり、神社仏閣にお参りに行ったり、親族のお葬式に参列してよくわからないお経を一緒に唱えたり、いろんな仏像を見たりしてきたが、仏教とは何か、よくわからないままなんとなく近くにあるものと思っていた。 檀家ではないし、自分が仏教徒であるという自覚はない。そんな仏教と目の覚める出会いをしたのが、約10年前のこと。 そこから、仏教のことをもっと知りたい、勉強したいと心に願いながら、初期仏教の本を読んだり、禅宗の本

    • 雑草に学ぶ

      長野県東御市に移住してもうすぐ一年になる。厳しい冬を乗り越えて、初めて春を迎えた。週替わりに満開になる花が違うので、色が変わっていく。桜が満開になって、自分の目線がピンクに染まり、地面一面に桜の花びらが散り、桜が終わった思ったら、今度はたんぽぽが満開になって目線が黄色に変わった。芝桜や花桃やチューリップのカラフルな色も目に入り、毎日違う色を楽しんでいる。 以前、東京23区に住んでいた時、雑草に目が行くことはあまりなかった。土はアスファルトに覆われ、整備された植木が整然と生え

      • 根の話

        枯れていた木が、いつの間にかピンクの花を咲かせたり、みずみずしい葉をつけはじめている。春や初夏の訪れは、いつも周りの植物が教えてくれる。記号としての暦では、知識として春を知っても、感覚では感じられない。色彩で、季節を知る。 植物は、誰に教えられることもなく、花を咲かせる時期を知っている。花を咲かせる役割も知っている。花はどんなかたちをしようが、美しい。生えたところから動こうとせず、まっすぐ素直に生きて、いのちを全うする。 それに比べて、わたしたちは、何かの世界観がどこかに

        • わたしと仏教の出会い

          わたしは何度も仏教と出会っている。 お葬式のとき。 おばあちゃんがお経を唱えているとき。 数珠を買ったとき。 お寺にお参りに行ったとき。 お地蔵さんとすれ違ったとき。 身の回りに溢れすぎていて、存在が空気のように当たり前になっている、仏教。何かのお願いがあるときは、神社仏閣に行って、神様仏様に祈る、そういう存在。 しかし、ほんとうの意味で出会ったのは、 ある法話会になんとなく参加してから、 仏教にすこしだけ興味を持ち、初期仏教の瞑想会に参加したときだった。 瞑想には興味

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        • 一心向佛の読書記録
          1本
        • 一心向佛 わたしと仏教
          2本

        記事

          小海線に乗る鉄道の一人旅

          「旅に出る」 この言葉は、家出に近いと思う。どこか、目的もなく意味もなくぷらっと出かける感じがする。 何の準備も計画もせず、ぷらっと旅に出ると、事前情報がないだけに、がっかりすることが少なく、むしろ意外な出会いがある。そして、帰ってきたときの自分は、出発したときの自分と比べて一皮むけていたりするから、ある意味、家出をして別人になって帰ってきたような感じだ。 それと比べて、ある場所に夢と理想をもって、綿密に計画して旅行に行ったのに、それ通りにならなかったら、嫌な気持ちにな

          小海線に乗る鉄道の一人旅

          一心向佛

          背景とプロフィール画像について 白い背景と黒丸としての自分 世界で起こっていることは文字情報としていろんなところから知ることができる。だから、世界は白いはずがない。だけど、私は接する情報の何一つと具体的に関わっていない。情報が毎日通り過ぎていくだけ。 自分の生活や、自分と関わっていることだけは明確だ。私と接するものが私の人生を形成していくので、知らない真っ白な世界の中に、知っている自分があるから、私が存在するところは黒丸としてマークできる。白い世界の中に、自分が具体的に通