紫陽花の咲く
紫陽花の咲く木を見て、これは紫陽花の木だったのだと知る。
紫陽花が好きだ。紫陽花は咲くのにたくさんの水を必要とするそうだが、それがわかるような、水性の色。じゅわりと分厚い花びら。花の影が花火のように、葉に濃く落ちる。紫陽花が咲くのはちょうど雲の白さがつよまる頃で、そうだったそうだった、夏はこんな風に暑いのだと思い出す。
それはそうと、最近気づいたことがある。
春は桜、初夏はツツジ、梅雨は紫陽花、夏は百日紅、秋は紅葉、冬には雪をいっぱいのせる椿が咲く木があるような気がして、ない。
あるような気がするのは多分、その木が花を咲かせるときにしかそれを眺めず、季節ごとに違う種類の木を見あげているからで、花が咲いていない木をあえて眺めることをしていないからである。いつも満開の花が咲く木があればいいのにというのは無理な話なのだ。なのに、満開の紫陽花を庭に植えている家を見ると、その人は庭に植えることのできるたった一本の木を、紫陽花に決めたのだ、と思いを巡らせてしまう。冬には花が咲かない木を庭に植えておくことをよしとするのだ、と。
どんなことでも芽が出るのは半年後、という文章に接して、そんなの当たり前だと思うけれど本当は理解も実践もしておらず、わたしは半年も耐えられずに投げ出してしまったり、過小評価されていると憤ったり、あるはずのない自信をなくしたりする。この思考が、わたしが生き急いでいるだとか、せっかちであるとか言われる所以だと思う。
村上龍さんの「限りなく透明に近いブルー」に収録された、綿矢りささんの書評に寄せて
読んだ本について、あまり感想を書いたりすることはないけれど、最近読んだ村上龍さんの「限りなく透明に近いブルー」について。
短いストーリーであるのに読み進めるのに苦労した。特に冒頭はショックが大きくて、なかなかページをめくる手が進まなかった。
ドラッグや性に溺れる米軍基地の近くに住む男女の話で、主人公のリュウは最後、精神的に崩壊する。そこで自分の願いと、印象的な光景を見る。濃く短く鉛のように重いストーリーに突き刺された後、けれど何よりも印象的だったのが、巻末に掲載された綿矢りささんの書評だった。
平たく言えば、言いたくないけれど、きっとストレスなのだ。しかしこんなカタカナ四文字で片付けられない。物事はもっと重層的だ。
わたしの場合は性やドラッグではないけれど、これをSNSに置き換え、社会に置き換えて読んだ。わたしは十代の頃からSNSに触れてきた。高校二年の修学旅行のときはちょうどインスタにストーリーの機能が出てきた頃で、みんなで試行的に投稿したのが忘れられない。わたしはSNSを見るのが好きで、なんなら、そういうのがあるのだとしたら、適性があると思う。人の投稿は楽しく見るし、自分のアンテナに引っかかるものはストックしていく。自分は楽しめている。でもそれが自分の深層、こんなワード最近は聞かないけれど、あるいは魂、そういうところにどんな影響を及ぼしているのか、思いやったことはない。いかなるときも自分を情報に晒してきた。そしてそうやって十代を過ごした人が、社会が、これからもSNSと共生していけるか、そんな確証はどこにもないのだ。誰も明日を生きたことはない。いつ壊れないとも限らないのだ。致命的なものではないと思いきや、次の瞬間壊れる。うつくしいものに殺されることはきっとある。
それともう一つ、オキナワという登場人物が、リュウにフルートを吹いて欲しいと頼むシーン。人間は根源的なところで、動物だ、動物だ、動物だ、そんな考えが自分の中に押し寄せていっぱいになった。この小説で、唯一救いのある場面だったように思う。言葉は必要なのだろうか。どんな言葉が生まれるより前から、ずっと人間を慰めてきた太古の文化。音楽。最近は言葉のない音楽を聞くことが多いので、そういうものになぜ惹かれるか、宿っている力のことをもう一度考えた。
最近は純文学や私小説のジャンルに興味がある。やっぱり大抵のことは描いておいてくれているし、物語に世界を解釈する道を求めるのが、性に合う気がする。
覚悟を決めよ‥ とは。はにゃ??
休みの日はだいたい、うっすらとではあるが、何をして過ごそうか決めている。
いや、決めているなんてものではなくて「きっとそうなるんだろうな〜、そうするんだろうな〜」と、実行するのは自分なのに、他人事のように思う。なかなか決まらない時はだいたい、「あれをしたい、けどお金が体調が、」と何かにつけてやらない理由を探している状態なので、そういう時はやりたくないのだと判断し、やらない。この場合のやらないとは、外出しない、ということである。でもせっかくの休みに何もしないなんて‥とぐずぐずする時がある。そういうときに駆け込むのは、定期券内のカフェにしよう。これは今日決めた。
休日の過ごし方について迷ってぐずぐずした、と母に電話をすると、あなたらしいわあ、と言われた。そうなの?と思ったが、そういえば思い当たる節がある。大学受験の時に、なかなか受験勉強に取り掛からず、そのくせ形から入ることにこだわり、やたら教材やら勉強法を取り入れ、志望校にことごとく落ちた。
いい加減覚悟を決めなさいよ、と言われていたけれど、わたしは心の底から意味を捉えられなかった。そんなことをする必要性もまったくわからなかった。そもそも大学に進学したのも就職活動をしたのも、それ以外の選択を検討さえせず、来ていいよと言われたところにノコノコと進んだ。大学は大してやりたいことがない人が行くところと言われているのを聞いて、その矢印がまっすぐ向いているのは自分だとやっと気づいたのは最近のことだ。
決断力も覚悟もないが、人一倍あるのは、思い込み力と関連付け力だ。これがわたしの人生に登場する予感がしたら、強くそれを想い、取り込もうとする。趣味や旅や勤め先も、そうやって導かれるように決めた。
これでなんとかやってきた結果爆誕したのがいまのわたしであり、どうなるんでしょうねえ、が口癖のモンスターである。
どうなるのかな、ではないのだよ。
そのやりかたが得意ならそれでもいい。でも望むものがあるなら、きっともっと考えて、決断しなければならないのだと思う。覚悟を強くしなければならないのだと思う。たまには現在地を確かめる。そして、自分の人生の選択や決断に関して、自分がすべての責任を負っていることを心地よく感じ、受け止め、手綱を握っている感覚を、忘れないようにする。