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ずっと九月

つまらない話

時間の議論は不毛だ。
長く感じられる、あっという間だった、そういうのは、暑いね寒いね、というのと同じくらいつまらない。中学二年生のときに、一緒に通学していた友達がおはようの後に「さっむ」というのを聞いて、学校に着くまでの間なにも話すことがない未来を予感した。あまりにも端的にそのことを捉えられた。小さい頃の方が、年齢に対して成熟度が高かった。大学生になってスタバでバイトをしていたとき、意識の高いお姉さんが「天気のこと以外で一言添えるようにしよう。そんなこと、誰にでも言える」と言っていた。この人とは似た感性を持っていると思った。誰とでも話せることは、重宝するけれどどうしようもなくつまらない。そして食べ物の話をするのは、生理的な欲求に絡む話なので少し気まずい。
時間に関する話をしても仕方がないのは、どう感じるかに関わらず、時間は一定だからである。昨日のことのように感じるとか、昨日のことではないのに。どう体感するかの話はなにも生まない。
自分が人以上にそういう不毛な話題を好きであるという自覚とコンプレックスが強くあるので、それを否定することで許されたいと思っているのだ。なにに? それはもちろん自分に。
その上で、である。九月はいつもわたしにとってあまりに長い。

九月の長さの所以は、始まりと終わりとで季節が一変しているからかもしれない。湿度をかき分けて過ごす夏は考え事をしなくて済んだ。空が日に日に高くなり、心が伸びをしてできた隙間にそっと秋の風が吹き込むと、息を吸っても吐いても寂しくなった。一人で生きていることを自覚させられた。わたしはこの風をすごく警戒している。
仕事中に、息してる?と聞かれた。そういえばわたしは息継ぎが下手だった。小学生のとき、息継ぎを習う前に水泳教室をやめてしまったからかもしれない。息継ぎが自分を楽にしてくれたことはなかったので、息を止めて泳ぎ切ったほうがいいと思っていた。
九月はそれを見逃してくれない。澄み切った空気を吸って溺れそうになる。

この話題もつまらないと確信しつつ、一年で変わったか。変わったと思う。
去年の秋の入り口のころの写真を見返すと、暗い。なんせ去年は、名古屋と東京を頻繁に行き来しながら、九月の頭には両親が遊びに来てくれた店を、終わる頃にはやめていたのだ。おかしいと思われるかもしれないし、強く共感してもらえるかもしれないけれど、その暗さがうらやましくも感じる。痛々しくて笑えるくらいさびしさと向き合っている。すごく深刻。
去年に比べ、涙を流すことが少なくなった。本を読んだ。あまり遠くには行かなかった。なにごとも10分と続けられず、意識が鈍くなった。歪みに気づいてそのままにした。
大人になったと思う。

一日の予定が徒歩7分のローソンに行くことだけだった日
大きな道に、車が走る音をずっと聞いていた。すべてのことは部屋の外で起こっていて、自分は地球に間借りした宇宙人になったような気分だった


さびしさといえば、三年前、大学四年生の夏、瀬戸内を一人で旅していた。香川にいたとき、強い日差しでしんとした商店街にある喫茶店に入った。カーブした天井が洞窟のような店。そこに一人でいて、喫茶店の日常に完全に溶けない自分に、きっと二度と訪れないだろうという確信に、思い出した頃にはその店がなくなってしまっている予感に、どうしようもない気持ちになった。自分だけが一人だと思った。そして娘にいつかこの気持ちを味わってほしいと思った。なぜ娘? これはおかしな話だった。娘はおろか相手もいないのに。いつか生まれてくる娘に、さびしい気持ちを抱えながら旅をして、同じさびしさを味わってくれないかと思った。あのとき母もこうだっただろうか、と思ってほしかった。それは未知の感情だった。でもそのときはそれしか考えられなかった。自分としては何の飛躍もなく、さびしさの延長線上に当然のように浮かんだ感情だった。その娘とは、自分のことだったのだろうか? 過去にも未来にも通じる、さわやかなさびしさとの出会い。

いつか今日がデジャヴになりますように。スイスの山小屋で人々が朴訥に生きるのを眺めながら、コーヒーとエッセイに向かい合ったときに

さびしさと、はたらくことを考える九月。今はほんとうに、幸か不幸か、夢を見られるところにいる。夢を叶えていくであろう人を見て、そばにいてほしいと願う。そばで夢を見られるだけで自分の望みは半分以上満たされる。あー、まただ。手段と目的を履き違える日々。
とにかく、今いる場所を選んだことは、ここ最近の選択の中で、人生における影響が大きく、よいものだった。


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