台湾で ひとり たびのなか
癒されるのはどんなとき、と大学からの友達三人と話していて、「一人でいる時間ぜんぶ」という答えが口をついて出た。自分でも想像以上に端的にその言葉が表現するので驚いたが、その瞬間、あ、と思った。中学生のとき、女の子のグループでいるときにも「わたし男子といる方が気が楽なんだよね」と言っている子がいた。それは言わないほうがいいのでは、と思ったし、周りの子たちもどう受け取るべきか決めあぐねていた。それとちっとも変わらないではないか。わたしはたまにこういうことを言ってしまったり考えていたりする。働いているお店のイベントスペースでガチャガチャが置かれたとき、四回連続同じのが出ましたと言われて、これは取り替えて欲しいということだろうかと悩んだ。他のスタッフには、そういうことではないだろうと笑って返されたけれど、わたしはお客さんの立場だとして、果たしてそう言わないかとどきりとした。同じものばかり出るガチャガチャをして、スタッフに、同じものばかり出るんですが、取り替えてもらえませんか?もしくは、時を戻してくれませんか?と真剣に言う想像。
話を戻すが、その三人はわたしの価値観が彼女たちと異なることを知ってくれているので、それ言う?と笑い飛ばしてくれた。そのことのありがたさ。そう言ってくれる人がいるそばで、一人になりたいのだ。
初めて一人で行ったのは、高校一年の終わりの京都。祖父からカメラを譲り受け、どこでも撮れるのに梅を撮ったり、レンタサイクルで銀閣寺に行ったりした。その後は青春18きっぷで瀬戸内、長野、特に京都にはなんども行った。去年、辞めた仕事と新しい仕事の間に一人で初めて海外に行ったのが台湾。
いまは好んで一人でどこかに行くことがあるけれど、以前は一人旅の哲学や動機を語れるほど、切実なものではなかった。高校生の時一人旅をしていたのは、わたしが部活をやっていなかったからで、みんなが部活をしている間、どこかに一人で出かけて行った。そしてもちろん、わたしを知っている人は大きく頷いてくれると思うけれど、一人で出かけることは恥ずかしかった。大多数の人がしないことをするのは恥ずかしい。そして便利に使っているだけであって、旅と言うのはいまでも憚られる。旅行と旅の使い分けに少しだけ考えを巡らせると、わたしがしているのは果たして旅なのだろうか、と気が引けてしまう。
旅をするように暮らし、暮らすように旅をする。素敵な響きだけど自分ではそういう表現はできない。もっと地続きで、必然的なこと。
旅から旅へ。
この文章を書いているいま、二度目の台湾での一人旅の最中である。10月の終わりとは思えないような大きな台風が台湾に直撃している。窓の外には、このままではすべてが沈んでしまうのではないかと思うような雨と、すべてが壊れてしまうのではないかというくらいの風。
散々一人がどうのこうのと書いたけれど、実は一人旅をして、一人でいることになんてなんの意味もない。わたしにとって一人旅は、もっと人と近いのだ。わたしがいま宿泊しているのはホステルで、台風で外に出られないというのもあって共用スペースに30人くらいの人が集まっている。ノートパソコンを開く人、食事をとる人、タブレットで絵を描く人。二段ベッドが三つ入る部屋では、会話は交わされずとも、それぞれの身支度の音が心地よく生まれる。尊重があり文化がある。共通するのは、わたしを含めて、ここにいる人たちはみな、人嫌いではないということ。
人の気配や物音には実はすごく癒される。自分しか音を発してくれない空間にいたことがあれば、きっとわかる。
一人旅ができないという人には、できなくていいよと言いたいし、一人旅が好きな人には、気まずいけど共感の意を表したい。否定する人がいたらこっそりと離れていきたい。そういう人は人生をどうやって選択して決断して解釈していくのだろう? と思うと、あなたの代わりに足がすくんでしまう。
一人旅なんて難しいことじゃないよ。
喫茶店の席に座った自分を宇宙から眺めて、
いまここにいることを強く意識したり、
そこにいない人のことを考えたり、
道を歩くときに音楽なんていらないなと思ったり、
植物の濃い色を反射した雨粒が緑に光りながら流れるのを見つめたり、
新幹線の連結部分で窓にくっついて、
知らない街に落ちる旅の最後の夕陽に祈ったり、
南の方の特有の、白く霞むほどの暑さのなか、
誰もいなくてしんと静かな広い道で、
SuchmosのOne day in avenueを口ずさんだり、すればいい。
さびしくなれないなんて、
さびしいことだと思う。
2024.10.31
台北にて