ブラウニーを作る理由
「湯煎に失敗した時は、簡単に作れるブラウニーにしましょう」
初めてブラウニー作りに挑戦した時に、湯煎に失敗して泣く泣く開いたサイトに記されていたのがこの文章である。
この一文を見て、ブラウニーを作るために湯煎をして失敗をしている自分はどうしたらいいのかと、途方に暮れていたのをよく憶えている。
体調が悪いと言ってバイトを早上がりさせてもらって、急ぎ足で材料を全部買い揃えて、食事をすることすら忘れるほど没頭して、気づいたら午前1時。
バレンタインデーのお返しとして、意気込んで作ったはいいものの、午前3時のオーブントースターから出てきたのは、焼け焦げた黒い塊だった。
絶対に失敗したくなかった。あの人に美味しいって言ってもらいたかった。「すごい」って褒めてもらいたかった。
悔しさと焦りを抱えながら、ベッドの中で数時間死に、迎えたホワイトデー当日。
帰りのホームルームの後、目も合わさずに、投げ捨てる勢いで黒い塊を押し付けてきた。
「味見してないから、まずかったら捨てていいよ」
失敗したけど正直に認めたくなくて、渡す時に強がりでこう言った。美味しくないということはわかっていた。
3/14をバレンタインデーのお返しをする日だなんて言い出したのはどこのどいつなんだろう。
そんなことを考えながらいつもより早く、強く自転車のペダルを踏み込んで特に用事なんてものはないのに慌てて帰ったあの日。
家に着いてからは、相手の反応が怖くてスマホをおやすみモードにした。
気づいたらベッドの上でそのまま眠ってしまった。
いま何時だろう、そう思ってスマホ開いて通知センターを見たら、焼け焦げたブラウニーの写真と共に「美味しかった!また作ってほしい」という一文が添えられていた。
心底馬鹿な奴だと思った。でも、馬鹿みたいに恋をしていたのは自分の方だった。嬉しかった。
何故だかその日はよく眠れた。
付き合ってから初めて自分の家に招いたとき、一緒にブラウニーを作った。
「料理を作るとき真剣な顔になるところ、好きだよ」
ボウルの中身をゆっくり混ぜていたらそう言われた。
混ざっていく材料を見ながら、宇宙に広がる銀河みたいだなと思っていた時にそんなことを言われたから、何だかとても驚いた。
ブラウニーを作るときはボウルの中身を早く混ぜすぎると、空気が混ざって焼き上がった時の出来栄えが悪くなる。だから混ぜる時はゆっくりと混ぜる必要がある。
「うちも何か手伝いたい!」っていうから洗い物を任せたら、隣で急に叫ぶから横を振り返ったら指先から血が流れていた。包丁で切ってしまったらしい。
どこまでドジなんだ、と思いながら半泣きになっている彼女の指先にそっと絆創膏を貼る。すると、彼女はこれまで見たことのない嬉しそうな顔で「ありがとう」と言う。可愛かった。
高校時代の、思い出の全てに彼女がいた。
時は経ち、大学4年生。もう隣には誰もいない。
自分が大学に入学すると同時に別れてしまった。
高校3年間ずっと好きだったのになぜ別れてしまったのか、今となってはよく憶えていない。
付き合っていた当時の記憶も、顔の輪郭も、手の形も、足のサイズも今では遠くのどこか異国の地に置いてきたような気分だ。
あれだけ好きだったのに、愛していたのに、どうしてだろう。
恋は人の感情を滅茶苦茶にする割に、過ぎ去った後は何も残らない。恋が与えるのは時間が経てば忘れてしまうようなものばかりだ。
それでも、ブラウニーを作っている時は鮮明に思い出すことができる。
チョコレートを刻み、バターと一緒に溶かし、卵、ココアパウダー、ホットケーキミックスを混ぜ合わせる。
その時だけ、あの人と再会を果たすことができる。
吸い込まれそうになるほどに澄んだ瞳、笑うと目が細くなる癖、一人称がたまに「我」になるところ、頭を撫でると犬みたいにはしゃぎ回る他愛なさ、手先が不器用なのに頑張ってお菓子や料理を振る舞おうとしてくれる健気さ、溢れんばかりに愛していたところが思い浮かんでくる。
ブラウニーを通じて、今日も私はあの人に会いにいく。
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