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父の自殺を咀嚼する

私の父は5年前の12月、自殺しました。

私の一番古い記憶は、父にお風呂で頭を洗ってもらっている記憶です。
手慣れて少し雑になってきた母と違って、不慣れがゆえに丁寧に、耳に水が入らないように頭を洗ってくれる、そんな記憶です。

4人兄弟の長子である私は、妹たちのお世話に明け暮れる母を独占することができませんでした。
そのせいか、私はいわゆるパパっ子でした。
車屋さんに勤める父から漂う仄かなガソリンの香りが、父の胡坐をかいた足の間で見るお笑い番組が、好きだったのです。

休みの日には家族みんなでお出かけして、年に1度くらいはディズニーランドに行ったりして、裕福ではなくとも幸せな家庭だったと記憶しています。


そんな家族が変わり始めたのは、私が小学生になった頃でした。
父は昇進し、作業着ではなくスーツで出勤するようになりました。
漢字がいっぱい並んだ役職の名刺を持つようになりました。
休みの日も仕事に行くようになりました。
朝早く出勤して、夜遅くに帰ってくるようになりました。
父と母はよく口論するようになり、家族で出かけても車の中で言い争いになり、そんなときに大きい声で怒鳴る父が、怖くて仕方がありませんでした。

父は最後まで私たちに暴力をふるうことはありませんでした。
その代わりによく物に当たりました。
食卓は父が殴って作った穴を埋めるためにガムテープだらけになり、クローゼットの扉は粉々になり、壁にも穴が増えました。

父はこの頃から私の中で「寡黙だけど優しいパパ」から「怒らせてはいけない怖い人」に変わっていきました。
妹たちの習い事で母は休みの日も家を空けるようになり、私は幼い弟と父と3人でお留守番することが多くなりました。
父は家事を一切しない人だったので、私は父の顔色を伺いながら母の代役をなんとか勤めようと、母たちが帰ってくるまでなにも起きませんようにと、そればかり考えていました。


そんな日々が続き、中学生になると私にも反抗期が訪れて、以前のように父の言いなりにはなりたくないという気持ちが強くなりました。
その頃には父は休みの日には朝から晩までお酒を飲み、テレビを見て、煙草を吸い、また眠る、というかなり堕落した状態になっていました。
今思えば、アルコール依存症だったのかもしれません。
父はプライドが高く、頑固なのできっと認めなかったでしょうけれど。

ある日、換気扇の調子が悪く、いつも通りリビングで父の吸う煙草の煙が室内に漂って、気分の悪くなった私は父に「換気扇壊れてるんだし、キッチンか外で吸ってくれない?」と言いました。
嫌悪感からかなり批判的な言い方をしました。
すると父は「お前誰の金で生活できてると思ってんだ、嫌ならお前が出ていけ」と逆上し、私を怒鳴りつけました。
その時、私の中でなにかが終わりました。
父は変わってしまった。大嫌いだ。最低だ。
私は父を避けるようになり、話しかけられても無視するようになりました。


私の高校受験が無事に終了し、私の高校進学と妹の中学入学の準備をし始めた頃、父が失踪しました。
これまでも泊まり込みで働き帰ってこないことはあったため、特に疑問には思わなかったのですが、父の会社の同僚を名乗る男性が家を訪ねてきて、父が辞表を出して無断欠勤をしている、家には帰ってきていないか、と言いました。
母は突然のことに面食らって、かなり混乱していました。
その後父の実家を訪ねたり、電話を掛けたり、友達に尋ねたりと、私たちもできる限り父を探しました。

私は父が死のうとしているんじゃないかと少し不安になりましたが、父の帰りを待ち望むほど父に対して好感を抱いておらず、なんて迷惑な奴なんだ、無責任すぎる、とただただ呆れていました。

2週間後、父は何事もなかったかのように帰宅し、仕事に復帰することはなく、そのまま無職になりました。

それまでパートとしてホームヘルパーをやっていた母は、正社員として老人ホームに勤め始め、朝から晩まで働き、家に帰って夕食を作り、その後深夜までSAでアルバイトをしていました。
母は目に見えて痩せていき、いつも疲れていました。
それでも何とか私たちのために、空いた時間でなるべくご飯を作ってくれました。

そんな母を横目に、父は仕事を探す様子もなく、朝から晩まで母の稼いだお金で酒を飲み、母に買ってこさせた煙草を吸い、ゲームをして過ごしていました。

毎日のように届く様々な督促状。
父の扶養に入っている私たちは保険証がなく、高熱が出ても病院に行くことができませんでした。

そして、よく母の財布からお金を勝手に抜き取っていることを私は知っていました。
それなのに、父はある日、「こんなまずい飯食えるか、あいつは本当にばかだ」と言って、母の作った料理を三角コーナー捨てました。
私は本当に本当に父が憎くて、母が可哀想で、無力な自分が悔しくて悔しくて、父に「無職のくせに」と吐き捨てました。
父は大きな声で私を怒鳴りつけ、壁を殴り、物を蹴り飛ばしました。


その日からずっと、私は父を見るたびに「死ねばいいのに」と思うようになりました。

父は無職になってから半年ほどでハローワークに通うようになり、様々な仕事に就いては辞め、就いては辞め、を繰り返しました。
私は大学受験が近づき、なるべく父と会わなくて済むように始発で学校に行き、遅くまで自習して終電で帰るようにしていました。

勉強しているときに父から「いくら勉強したって無駄だぞ」と言われたこともありました。父に対する憎しみは募るばかりでした。

私だけでなく、末の弟を除いた全員が父を空気のように扱い、父がリビングにいるときはみんな自室に引きこもるようになりました。
まだ小学生だった弟だけが、父の顔色を伺い、気を遣って、いつ逆鱗に触れてしまうのかと怯えながら父の近くで過ごしていました。
その健気な弟の姿が、可哀想でなりませんでした。
しかし、私にはどうするべきかもわからず、ただ、私たちは静かな家族になっていきました。


やがて、父はなんとかやっていける仕事を見つけ、私は無事第一志望の大学に合格しました。
父に対して私から進路に関して伝えることはありませんでしたが、父は誰からも何も聞かずとも、カレンダーに母の書き込む予定を見て私の引っ越しの日は知っていたようでした。

引っ越し前夜、父が何か大きな荷物を持って帰ってきて、それを私に「持ってけ」と手渡しました。
久しぶりに父に話しかけられて、戸惑いつつも仏頂面で「ありがとう」と言い受け取ると、中身はフライパンや鍋、まな板、包丁といった調理用具でした。まな板と包丁以外はどれも私の大嫌いなピンク色。

「今更父親ぶってんじゃねえよ」と怒りが込み上げてきて、私はどれも要らないと、袋ごと遅くになって帰ってきた母に渡しました。
しかし母は、「包丁とまな板だけでも持っていきなさい」とピンク色のものしか受け取ってはくれず、しかたなくその二つは引っ越し先に持っていくことになりました。

そしてこれが、私と父の最後の二人だけの会話になりました


大学での生活にも慣れ、迫りくる期末試験の対策や期末レポートの作成に追われ始めた2018年12月のある日のこと。
授業中、グループディスカッションという名の談笑していた時に、妹から「じじい死んだって本当?」とLINEが来ました。
どうやら妹には叔母から父親が死んだのは本当なのか?という連絡がきたようで、妹も困惑している様子でした。
一先ず母に確認してみようと妹にLINEを返している際に、母から電話がかかってきました。

「パパの遺体が見つかった。自殺みたい。」

母は疲れた声でそう言いました。
私は、悲しみなんかではなく、ただ呆れて、悔しくて、怒りが込み上げてきました。
「逃げやがったな」、その言葉が口をついて出ました。

母は警察署に行かなければいけず、今日は家に帰れそうにないこと、葬式があるから今日中には帰ってきてほしいことを手短に告げ、慌ただしく電話を切りました。

私は教授に授業の早退をさせてもらい、大慌てでアパートに帰り、スーツと数日分の下着と締め切りの迫るレポートの文献だけをリュックに詰めて、バスに飛び乗りました。
実家はかなり田舎なので、その時間から帰っても終電で最寄り駅に到着しました。

電車の中で期末レポートの参考文献を読もうとするものの、学費払えるのかな、留学には行けなくなるのかな、いつ大学に戻れるのかな、欠席のメール教授にしないとな、と次々に頭に浮かんできて、全く集中できませんでした。


翌日、私たちは父の納棺式に向かいました。
遺体が発見されるまで少し時間が経っていて、早めに納棺する必要があったのです。
納棺式は私たち家族と母方の祖母、父方の祖父母と父の兄弟で、ひっそりと行われました。

父の顔を拭く際に、久しぶりに父に顔をまじまじと見ました。
あんなに怖くて、憎くて、大嫌いだった父がなんだかとても小さく感じました。

私たち家族は、小学生の弟も含め誰も涙を流すことはありませんでした。
父方の家族が涙を流しているのを見て、心の中で「死んでも妻と子供に悲しんでもらえなくて可哀想」と他人事のように思いました。


父の葬式は親戚と父の友人だけでひっそりと、本当にひっそりと行われました。
私の実家の近辺では、近隣住民同士が葬式の運営を手伝う風習がありましたが、亡くなり方が亡くなり方だったので、誰にも来てもらいませんでした。

それでも、どこかから噂を聞きつけて、お葬式に参加して、「どうして亡くなったの?」と不躾に聞いてくる人もいました。
田舎は噂が広がるのが早いので、「どうして亡くなったの?」はつまり「どうして自殺したの?」ということが知りたくて聞いているのでした。
気が遠くなるほど退屈で、信じられないほど長い葬儀の最中、人の不幸がそんなに面白いか?噂話のネタがそんなに欲しいか?と腹立たしく思った記憶があります。

その後、父には1000万円近い借金があったこと、自殺の数日前に会社で大きなミスが発覚し無断欠勤していたことが発覚して、私と母は様々なところに頭を下げに行きました。

死んでもなお家族に迷惑をかける父がやっぱり嫌いで、こんな最低な人間の娘であることが恥ずかしくて仕方がありませんでした。


その後、私は元の生活に戻り、誰にも父の自殺のことは伝えず、何事もなかったかのように暮らしていました。

それでも、たまにバイト先に父に似たお客さんが来ると、動揺して上手く笑顔が作れなくなりました。

父親が出てくる悪夢にうなされて、夜中に目が覚める日もありました。

5年経った今でも、父が夢の中に出てきて、あの静かで、心がざわついて、逃げたくなるような恐怖を感じることがありました。

父の死から5年の月日が過ぎて、私は5年越しに留学という夢を叶え、小学生だった弟は高校生になり、妹には娘が生まれ、もう一人の妹は来春から看護師になります。
母は、父の遺した1000万円の借金を返済しながら働き続け、今年から務めている介護施設で昇進したそうです。
私たち家族は、父親が亡くなってからの方がずっとにぎやかで、仲が良いと感じています。

様々なことが変わっていく中で、父親の自殺だけが、心の中でしこりのように残っています。
まだ、父が生前私たちにしてきたこと、責任を放棄して人生から逃げ出したことは許せていません。

父が死んでくれてよかった、とすら思うのです。
父が飲酒運転をしたのを何度も見ました。
どこからか入手した日本刀を家で磨いては、刃先を私たち子どもに向けて怯えさせて楽しんでいました。
父がその日本刀を持って、失踪する前に働いていた会社で暴れたとも聞きました。家族には言わないでくれと、土下座して口止めしていたようです。
こんな人と家族であると思われることが恥ずかしいと思っていました。
だからこそ、今でも父がいないことに安堵する瞬間があるのです。

それでも、心のどこかで、父を許したい気持ちもあります。
もし、自分の過去の過ちを認めて、謝ってくれたなら。
もし、生きていてくれたなら。
いつか、父と笑って話せる日が来たんじゃないかと思ってしまうのです。


まだ、父の自殺を自分の中で消化しきれていません。
これからも時間をかけて、ゆっくりと咀嚼していきたいと思います。

今年亡くなった父方の祖父が、あの世で父にお灸を据えてくれていたらいいなと思います。



(罪滅ぼしをするかのように、)彼氏の希死念慮とも向き合っています。
生きることが辛いのはわかる。フッと人生を辞めたくなる気持ちもわかる。
でも、せめて、私の好きな人たちが、もう少し生きてみるのも悪くないなと思う手助けをしたいと思っています。

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