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責任者としての自覚

マネージャーという役職をもらってからはや数年。なんとかかんとかやってきたけど、「責任」って何?っていうのはよくわからないままやってきた。

今も正直わかってるのかと聞かれれば説明はできないんだけど。
でも、なんとなく、感覚的に急にパッと生まれたこの感情がきっとマネージャーの責任、というやつなんだと思う。

責任とは?

2018年、晴れてこの会社にマネージャー職として入社。現場責任者となった。
とはいえ、
「責任のあるポジションだからね!」
と言葉で言われても、「はーい」ってなもんで、責任とは?という感じ。
責任をとって辞職します!という人はいるけど、辞めても次があってただ楽になるだけならむしろ責任をとった、というより責任放棄なのでは?という疑問がわく。

結局、現場責任者をしていたころは、「円滑に運営をしていくこと」が責任となるのか・・?とふわっとした気持ちのまま、問題があれば謝り、自分のチームの誰かが何かをすれば謝る、というクレーム対応が強いて言えば責任をとった、という感じだった。しかし、上の者を出せ!と言われて出て行ったところで謝るくらいしかできないし、これが責任なのか?という感じだった。

現場責任者①から現場責任者②へ昇格

マネージャー職の次に私はエリア責任者に昇格した。
現場責任者①は1つの店舗を任されていたけど、エリア責任者はいくつかの店舗を任される感じ。とはいえまだまだ現場の責任者、クレームの範囲が増えたり、ええー!?私が店舗責任者だったころにはこんなこと起きなかったけど!?というようなことが起きたりはするものの、基本的には「店舗で起きていることを解決して円滑に運営をしていく」という本質は変わらなかった。
ので、結局、気持ち的にはそんなに変わらなかった。

そして本部へ

現場責任者を経て、私は本部へ異動となった。
ここでは、エリア、ではなく、会社全体、に関わる仕事が増え、いろいろな人と関わることが増えた。
私の感じられるところの「責任」は「円滑に店舗運営をすること」から、「自分に課されているタスクをしっかり最後まで細部にこだわりながら完了していくこと」に変化。この、自分に課されているタスク、というのは会社全体に関わることだったりするので、責任の範囲はそれでいくと広がったのかもしれないけど、現場の仕事のように人のリアクションをダイレクトに見ることはかなり稀なのでなかなか責任を果たしている!という感じは感じにくい。

そんな中、一つの大きなイベントを企画、運営することになった。

終わってから感じた初めての「責任者」という実感

会社全体で大きなイベントがあり、その企画、各所との打ち合わせから当日の運営まですべてを任され、その「責任者」を務めた。
総勢3,000人以上が関わる大きなイベント。
準備もさながら、当日はハプニングもあり大成功とはいえないながらもまあどうにか終わった・・・・・という感じでイベントは終了した。

準備期間中は、打ち合わせなどで毎度毎度「このイベントで責任者の~」と紹介されてもなかなか実感もなく、普段とそんなに変わらない気持ちで業務をコツコツこなし、当日も運営に関わる人への説明などはするものの、これも現場責任者のときにも経験しているし特に大きな気持ちの変化もなくハプニングがあっても「私のせいで!」なんて微塵も思わず、いち運営スタッフという気持ちでやっていた。

気持ちの変化があったのは、すべて完了したあと。

ふりかえりミーティングで振られた一言

社外の関わってくれた方との振り返りミーティングをした際のこと。
そのミーティングを設定したのが私の天敵ともいえる外国人スタッフで、その社外の方とは通常私は関わることはなく、対してその外国人スタッフはよくその方とミーティングをしていたので私はこのときもただ傍聴するだけのミーティングだと思っていた。
当日までそのミーティングの目的も伝えられず、ミーティング直前に、今日は何について話をするの?と聞くと、「え、知らないよ!彼がこのイベントの責任者と話したいと言っていたんだ」と。
準備もしていないし、それなら準備したのに!という気持ちと天敵への腹立たしさで、またか・・と思った。

思ったんだけど・・・・

ミーティングが始まり、天敵が「イベント責任者のゆんさんです、どうぞ」と私に丸投げしてきたとき。
普段なら、「まじで腹立つ!なんだあいつ!!」と思うところだったと思うんだけど、このときは、「そうか、私は責任者だったんだなぁ」と、初めてなんとも言えない「責任者」という実感をした。

この実感、というのは、一言では表しにくいのだけど、あの部門ともこの部門とも、もっと打ち合わせをして話を詰めておかなければならなかったんだな、という全体把握をし切れていなかったことの反省だったり、こういう準備もしておけば良かったから来年はそうしよう、という改善しようという気持ちだったり。

責任者の仕事

前職のとき、とても私が尊敬して好きだったチームのディレクターがいたのだけど。(マネージャーの上、というかトップの人)
その人が辞めて後任が入ってきたとき、私は前の尊敬していたディレクターに、「新しいディレクターは私の仕事を何も分かっていない!」と文句を聞いてもらったことがあった。そのとき彼女は、「ディレクターはすべての仕事をできる必要はないんだよ。だれがどの仕事をやっているのか、どういう仕事をやっているのか、ある程度把握しておく必要はあるけど。そのために、部門の担当者がそれぞれいるのだから。」と言っていた。言われた当時は、でも彼女はちゃんとわかってくれているからやっぱり後任のディレクターは仕事ができないやつなんだ・・・とそのときは思った。

でも今回、イベントの総責任者を経験して、まさに彼女が言っていたことに納得できた。

今回の私はこの大きなイベントで総責任者だったわけだけど、まさにあの頃のディレクターだった彼女と同じ、全部をできる必要はないけど誰が何をするのかは明確にし、本人たちにも自分の仕事をまっとうしてもらう、ということが大切だった。
自分がわからないようなことをやっているITやデザインチームの人たちにもイメージや期日を伝え、それがちゃんと準備されているのか、当日ちゃんと動かせるのか・・・そしてたくさんの人が見えないところで動いていくから、動いてもらうために事前に説明をし理解をしてもらい・・・そこで、一人ひとりがちゃんと業務を全うし、一つに集まったときに初めて完成!と言えるのだということが分かった。

だから、振り返りミーティングでミーティングを設定した外国人が私にすべてを投げ、「責任者のゆんさんです」と言ったとき、「私がすべて答えられないといけないんだ!私が、いやーちょっと知らなくて、と言うことは許されないんだ!」と感じ、これが「責任者になる」ということなんじゃないか・・・と思えたんだと思う。

結局は個々と向き合う

結局のところ、「責任がなんなのか」はわからないんだけど。
「責任者」という仕事はわかってきたと思う。

この「責任者」の仕事は、私的な解釈は「個々と向き合うこと」。

One for all, all for oneという言葉の通り、全体を成功させるために見渡すと結局一人ひとりがしっかりと動いていく必要があり、その一人ひとりがしっかりと動くためには、その一人ひとりが何をすべきなのか、を明確に理解している必要がある。
でも、その一人ひとりは”もの”ではなく”人”で、感情がそれぞれあるから、その仕事をする上でもいろいろな感情があったり疑問があったり、もしかしたらもっと良い方法を知っていたり。
だから、それぞれの部門が最大限の力を発揮し、最終的に全体が一つにまとまってより良いものを作ることができるよう、総責任者は、全体像を常に意識した上で個々と向き合うことが大切なんじゃないかな、と思う。

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