人の死のニュースを聞くと心が辛い
藤岡康太騎手が亡くなる
本日朝に藤岡康太騎手が亡くなったというニュースが飛び込んできました。
先日のレースにて藤岡騎手は落馬事故に遭ってしまい、その後意識不明の状況が続いていました。多くの人が回復を祈ったものの、残念ながら4/10に亡くなりました。
事故があったパトロールビデオを見ると馬が躓いて藤岡騎手の身体ごと振り落とされ、その後に後続の馬に頭を蹴られているように見受けられました。こればっかりは誰も悪くない、運が悪かったとしか言いようがない出来事でした。
騎手というのは生死と隣り合わせの仕事です。先日4/24には高知競馬の塚本雄大騎手も落馬で亡くなっています。これも不慮の事故でした。
若い二人が亡くなるというニュースは本当に辛いです。二人とも夢や希望にあふれていた騎手人生を謳歌している最中ではありませんか。藤岡騎手はまだお子さんが小さかったはず。父親の顔を知らずに成長する運命を考えるだけで悲しくて仕方ありません。
今でこそ光の部分にフォーカスがあたっている競馬ではあるのですが、正直言うとかなりエゲつない現実があります。レース中での落馬は毎週のように発生していますし、そのたびに馬や人が傷ついています。そういった現実の屍を礎にして競馬は成り立ってます。
別に全ての人が裏の部分を知る必要はないとは思いますが、長年競馬を愛している人間としてはこうした現実に目をそらすことなく向き合っていきたいなと思ってます。
どうして僕は生きているのかと反芻する
僕なんかはどうしようもない人間なので、ほぼ毎日「あー、死にてぇな」と思っています。でも実際に死ねないのは単純に死ぬ行為が怖いだけのこと。本当これだけです。
多分僕が死んだところで悲しむ人なんざそんなにいなくて、半年もたてば僕の存在そのものが見知った人たちの中でさえ消え去るでしょう。そんな人間が世の中にいてもいなくても同じだよなーっていつも思ってます。
でも、なんやかんや僕は今日も生きてます。
こんな僕が文句垂れながらものうのうと生きているくせに、こうして「生きたかったのに死んでしまった人」の話を聞くとやりきれなくなります。僕が代わってやれるなら代わってあげたい、その方が喜ぶ人はきっと多くいるんじゃないかと。
神様って僕ら人類に下す死に対しては完全に機能不全だよなっていつも思ってます。死は往々にして「まだ生きたい人たち」に訪れるような気がしてます。もちろん、死期が決まったからこそ生きたいという気持ちが強く出るだけの可能性もありますが。
将来有望な人たちがこうして亡くなって、僕みたいな「さっさと居なくなりゃいいのに」という存在がいつまでたっても死の予兆が来ないのは何なんでしょうね。
僕は世の中から別に求められるような人材でもなければ、支えなければいけない家族がいるわけでもなく、求められる何かを背負っている状況でもない。いわば社会のお荷物みたいな人間がこうして生きてる意味を考えさせられるのが、人の生死のニュースによって掻き立てられます。
改めて思うのは人の生死は世の中のプラスマイナスで訪れるものじゃないです。ひとの思いとは別にやってくる無常の信託だなぁと悲しい気持ちになります。
生きる意味なんてわかるはずがないけどさ
ここでも書いてますが、基本幸せってやつがよくわからんです。
僕なんかは小学生のころから「人生は死ぬまでの時間潰し」と思ってた生粋のアホなので、生きる意味なんてここ何十年考えても出てこなかったことから考えることを放棄しつつあります(それでも頭の中を駆け巡ること数多なんですがね)
そんな僕に生きる理由が出来たならと思って取り組んだ仕事もこんな感じでとん挫しまくりですし。上手くいかないのは自分の責任なんだけどさ。
こうして長らく社会人としてやってきても何にも見いだせない自分の生きる目的ってのは、イメージだけで語るにしてもひどく情けないというか、むなしいものに感じます。
世間一般で言う幸せやら、お金持ちやら、精神的満足やらが存在しえない自分にとって、今後何の目的でただただ日々を過ごしていくんだろうという気持ちが沸いてきます。
本当のところは自己満足で生きていくしかないよなあ、僕みたいな人生は。誰かに何かを求められたいなんて思うのはおこがましいし、そんな資格もあるわけでもないし。
ああ、生きる意味ってやつは本当に難しい。誰かこうしたことを語り合えたらまた考えが変わったりするのかしら?リアルでこんな話をしてたらヤバイやつのような気がしてならないな…
なんでもいいや、とりあえず友達募集(笑)
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