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circle、それはサービスであり、思想であり、運動だ。

こんにちは、コンタニと申します。このnote記事を見つけてくださり、誠にありがとうございます。

自己紹介は、以前こちらのnoteにも書いたのでご興味がある方は合わせてぜひ読んでいただければと思うのですが、私は今、入社して約6年間超勤めていたクラウドワークスを退職し、起業の準備を進めています。

このnoteは退職エントリとして、そしてこの約6年間、事業や仕事を通して学んだこと、活きたこと、活きた言葉、そして起業してどんな会社を創っていきたいのか、どんな価値を社会に生んでいきたいと現時点で考えているのか、そういったことを綴ってみたいと思います。

このnoteを通して、誰かが、これを見ているあなたが、今取り組んでいることに自信が持てたり、価値をより一層感じられたり、何か新しいことにチャレンジする勇気が持てたり、迷いや模索の中での一つの勇気となれば幸いです。

プロフィール:紺谷弥生(コンタニヤヨイ)

石川県金沢市出身。父は高校教員、母は小学校の先生という家庭に生まれる。旅好きの両親に連れられ、日本は全都道府県、海外は約30か国以上に渡航。国内の実家でもホームステイを受け入れ、海外の社会人や留学生と共に暮らす。

大学で都内に進学・上京後、新卒就職で地元石川のテキスタイルメーカーにUターン。営業、生産管理に約2年弱従事し、クラウドワークスに転職・再上京。

クラウドワークスでは、フリーランスキャリアサポートサービスの「クラウドテック」にてキャリアアドバイザー、セールス、新領域のチーム立ち上げ、商材・事業開発、マーケティングなど幅広く従事。途中、会社がM&Aした子会社に出向し、PMIも経験。その後、自ら新規事業「circle」を構想、社内で起案し事業責任者として立ち上げ。会社の方針に伴い事業はクローズする形に。そして現在。

自分にとって重要なことに気付いた、新卒時代

こちらのnoteでも書いてみたものの、まずこの会社に入る前のところから少しお話ししたいと思います。

前職が新卒1社目にあたるのですが、私は地元のテキスタイルメーカーに就職しました。日本はかつて繊維産業の国と言われた時代がありました。そんな日本の中でも、北陸は国内外と取引をする老舗繊維・アパレルメーカーが、今でも残っているエリアです。

私は幼い頃からファッションが好きで、それに関わるものづくり、時代のトレンドが作られていく感じがとても好きでした。大学が都内だったので普通に就活は都内で実施していて、都内の会社も含め10社くらい内定がありました。(この部分を少し自己考察すると、中学生くらいから~大学時代まで、音楽活動をずっとやっていたので、人前に立って伝える、自分を表現するということが比較的慣れていたのもあると思います。毎週のようにライブハウス等に立っていたので、一般的な他の学生より舞台慣れもしていたかと思います。)

最終的に地元の企業に就職することを決めたのは、地元が同じパートナーと結婚することが決まっていたからです。
彼は私より年上だったのもあり、地元で既に会社勤めをしていました。家庭を持ち、仮に子供ができた時に、地元の方が子育てがしやすいと漠然と思っていました。そのうちいつか帰るなら最初から地元にいた方がいいだろうな…とも就活時に考えていました。結果就職したその地元の会社は、創業80年以上の老舗メーカーで、非上場ではあるものの無借金経営の会社でした。間違いなく地域に貢献している会社で、取引先も世界中に渡っていたので、今でも本当に優良企業だなと思います。

しかし、当時の自分は、入社直後から”合ってなかったんだな”と早々に気づいてしまいました
自分がやっていきたいことと、自分の家庭の展望などを組み合わせて意思決定したはずだったんですが、地方の老舗企業なので、どうしても中にいる人や組織の面で多様性がないように、保守的なように感じてしまっていました。事業や商品に対して、積極的に改善しようとする姿勢を周囲から感じられませんでした。「ああ、みんな自分の生活のために仕事をしているんだな」とがっかりしてしまうことも多くありました。今なら働き方や人生観、仕事観において色んな考え方があるということを理解できますが、当時の自分は自分自身が考える理想と身近な周囲とのギャップに苦しんでいました

また、モノづくりは基本的に商流が長いので、最終的にどんなものが誰に届いているのかが見えにくく、最終ユーザーやマーケットについて、誰とも語り合えないことも苦悩の一つでした。自分が生産に関わっている商材が、取引先に卸しても在庫となって廃棄されても一定の売り上げがたつのを見て、「自分がやっている仕事は、本当に誰かに届いているのかな」と不安に思う日々もありました。

未来の家庭像といったような、自分の人生の先のことを考えて計画、決定しすぎたんだなという後悔をしました。いつ来るかわからない未来のために、今を犠牲にするのは自分には難しい。仕事を通して誰かを感動させたり、社会にこういうものを生んでいきたいという思いが、自分の中で大きかったことに気づきました。勿論家族や人と人との関係も大事ですが、仕事においてそれができていないと私は幸せじゃないということ。仕事か家族かではなく、どちらも私にとって重要なことでした。

色んな”言葉”のおかげで、自分というものの理解が深まった

そういった苦悩、もやもやから、「自分はできるだけ、直接誰かの役に立てるような仕事がいいんじゃないか。一緒に働く人とも、時代やマーケットの変化について共に考えて語りあえるような環境がいい。また、変化に対して強い会社、組織の方が合っている気がする」と徐々に自己考察が深まっていきました。考えを深めつつ、企業をリサーチしている中で、「自分にはベンチャー企業がフィットしているのでは」という仮説を持ちました。

当時は第二新卒ですし、いざ転職するとしても自分に全く自信がありませんでした。たまたまWantedlyで見つけたクラウドワークスの企業情報・求人情報を見て、人に仕事を紹介する、フリーランスという新しい働き方の選択肢を広げていくという内容を読んで、「自分の仕事を通して、人の人生の役に立てるかもしれない。少なくとも、自分がやっている仕事が誰のためになっているかわからない、ということで苦悩することはなさそう」と考えました。自分たちでこれからの時代を作っていくような事業だな、と強く思いました。

異業種からの転職なので、入社した時はまずITツールに不慣れでした。バタバタと動いていたものの、前職で苦悩していた「最終ユーザーに対して向き合う」ということを思いっきり考えながら仕事に邁進できる状況で、すごく日々が充実していました。常に目の前のワーカーさんや、期待して下さるクライアントさんのことを考えながら仕事をしていました。最初の方はタスクが溢れていてあくせくしていましたが、少しずつ慣れてきてからは、できるだけ先取って仕事を進められるようになりました。

入社して最初から、「この業務を担当してほしい」という依頼のされ方ではなく、「この事業では今こういう課題があって、こうしていきたいんだよね」という課題、テーマ単位で仕事を任せていただけました。他の社員は必ずしもそういう任され方ではないと、私自身も気づいていました。当時の上長から、「紺谷のことは、他の人とはちょっと違う育て方をしたいと考えている」と言ってもらっていたことを今でも思い出します。

仕事において、深くユーザーさんにヒアリングできない時、ワーカーさんの細かいキャリアや、志向性、人生に深く踏み込みづらい時もありました。「結構プライベートな話になってくるような気がするけど、相手に聞いてもいいのかな」という風に、時々踏み込んでいくことに遠慮することがありました。そんな時、上長に、「聞きづらいこともあるかもしれないけど、踏み込んで行かないと本当にお客様に向き合っているとは言えない。踏み込んだ提案ができない」と声をかけてもらったことも覚えています。
そこから、ユーザーさんの考え方や人生、細かなキャリアやその時の状況について、少しずつ勇気をもって深くお伺いできるようになっていったと思います。

入社して数か月、バタバタと日々の業務を進めながら、まだ慣れたとは言えないような段階から、毎日ユーザーさんから感謝の言葉が届いていました。「今まで自分のキャリアのことを、脈絡がないキャリアだなと落ち込んでいた時もあった。こんな仕事の機会をいただけて、点と点がつながったのは、紺谷さんのお陰です」と言っていただけたこともありました。まるでジョブズのconnecting the dotsを彷彿とさせるような言葉ですね。(笑)
毎日のように、メールでも口頭でも「紺谷さんのお陰です、ありがとうございます」とお話しいただいていたので、徐々に感謝の言葉をいただくことに慣れて麻痺していったような気もします。(笑)

社内の一緒に働く方も、私がいないところで私のことを褒めてくださっていたと知りました。「紺谷ほど、ユーザーさんのことを考えて仕事をしている人はいない」「全員が紺谷さんのようになれば、事業は100%伸びる」と言っていただいたこともあったようです。不慣れで、業務量が多い中パツパツになっていた時も多かったので、社内外の人に迷惑が掛かっているんじゃないか…と常に当時は恐れながら業務をしていたのですが、今思うとそれは大したことではなかったのかな、と思います。

他にも、私が仕事に取り組むうえで、支えとなった言葉は多くあります。「トラブルはどんどん起こせばいい」とも声掛けされました。「お客様に一番信頼されていて、一番成果が出ている人が、一番トラブルが多いものなんだ。お客様にさほど信頼されていなくて、成果が出ていない人は、トラブルも少ないものなんだよ。トラブルの後始末は自分や会社が何とかするんだから、どんどんトラブルを起こせばいい」と上長に言ってもらったときがあり、すごく救われました。

また、「お客様から連絡やコミュニケーションをとりすぎて怒られるのはいい。攻めて相手に叱られるのはいい。お客様から『連絡まだですか?』と言われるのが一番恥ずかしい」という言葉も、すごく心に残っていて今でも大切にしています。そこから、「とにかく、相手を待たせずに自分からアクションしよう」「前倒しで進めて、何事も自分から先に動くようにしよう」と意識するきっかけになったと思います。

この頃から、一緒に働いている人から自分を客観的に言語化して声をかけてもらうことによって、”ここが人より秀でているのではないか”といったような、自分の認知、メタ認知が深まったようにも感じます。

「結婚したばかりだったのに、1人で再上京して単身赴任でベンチャーに飛び込むくらいなんだから、紺谷は決断力、意思決定する力があると思う」「例えば人材マッチングのような事業だと、どうしてもクライアントだけ、ワーカーさんだけと、一方のことしか見えなくなりがち。でも紺谷は、一見相反するようなことを、矛盾するようなことを、両方大切にすることができる。だから、色んな人が関わる、ステークホルダーが多いビジネスはとても向いていると思うよ」「紺谷には、綺麗ごとを綺麗ごとそのままではなく、現実にする力がある」など、単純に私のことを褒めていただく・叱っていただくの境地を超えた、私が私について知るための、大切な言葉を沢山かけてもらったなと今でも思っています。

他にも、事業を構想していて壁打ちをさせていただいている際に、「紺谷さんは、未来や理想、方向性を、being・macroで考える傾向にあるね。これはどちらかというと事業家というより政治家の発想」と声をかけてもらったこともありました。今まで自分自身で自分について、考えてみたこともないことを、他の方からの言葉で気づくことが多かったです。この言葉から、「ビジネスは世の中の課題をすべて解決する万能の利器というわけではない。ビジネスも、行政も、政治も、非営利の事業も全て大切で、アプローチがそれぞれ異なるだけで、全て社会をよくするために向かっている」と本当に心の底から思えました。思えたことで、事業、ビジネスというものの捉え方自体も、以前より深みを増したように思います。

私は2021年くらいから、野球部出身の夫の影響でプロ野球を見るようになりました。同郷の松井秀喜大大大大先生の名言で(笑)「年を重ねれば重ねるほど、恩師とは物理的に距離が離れていくのに、恩師からもらった言葉は、時間を重ねるほど、僕に近づいてくる」という名言があります。まさにそれを感じる日々です。

私自身も、今すぐに役立つこと、役立つ言葉だけではなく、時を経て、その人の人生に残る言葉、その人に”近づいてくる”言葉を残せているか。そんな振る舞い、行動ができているのか、日々考えていきたいなと思っています。

「分ける」ということ

勿論、事業の中で日々理想と現実の乖離に苦しむことは多かったです。
「絶対にこういう未来に、こういう社会になっていくはずなのに、現状はまだこの程度しか自分はやれていないのか…」「もっと高い視点で、広い視野でこういう風に動いてほしいのに、自分の目の前の利益起点でしか動けないのか…」など、社会に対しても、関わる人に対しても、そして全ては自分に対してですが、悩むことばかりでした。

そんな時も、周りの方の言葉や本、考え方に救われました。
「紺谷は、何でも自責に自分ごととして苦しんで悩んでしまう傾向にある。責任感があるのはいいことだし、改善したい、解決したいと多くのことに思えるのはいいことだけど、それではさすがに心が苦しくなってしまう。”問題”と”課題”は分けて考える必要があるんだ。本当に解決すべき、自分がコントロールして取り組めることが”課題”なんだ」と声をかけていただきました。

これは決して、「自分がコントロールできない問題は”課題”とは言えないから、考えても無駄だから諦めろ」という意味ではありません。それまでの私は、何事も”分ける”ということをあまり上手にできていなかったように思います。自分のことも、自分以外の人のことも、社会のことも、直近のことも中長期のことも、全て一緒くたにして悩む傾向にありました。ちょうど近いタイミングでアドラー心理学の本を読み、かけていただいた言葉を含め、そこで本当に開けた感覚を、すっきりとした感覚を持ちました。

自分でコントロールできず、かつ解決する意義がないことで悩むのを辞めました。代表的なのが他者からの評価です。「こんなことをしたのに、何で自分は評価されないんだ」そうやって苦しむことが私にもありました。勿論、今でも全くないといえば嘘になりますが、このあたりで概ね大部分を捨てることができたと思います。

また、この頃から”感情”と意識的に距離を置き始めました。少なくとも、仕事や事業においては捨象したと思います。
うまくいかなくて自分の無力さを痛感して悲しくて泣いていても、結果や現実は変えられないのです。「悩む」と「考える」は異なる。先ほどまさに書いたところですが、「分ける」ということを自分の中のOSとしてインプットさせたように思います。
もともと、感情的・衝動的なものをコアに置いて行動するタイプではありませんでしたが、この時期を経て拍車がかかったように思います。

仕事や事業を通して、より多くの人に、社会に貢献したいと本気で考えるならば、そのような「紺谷弥生」を別に演じたほうがいい。パブリックな自分と、個人的な自分を分けたほうがいい。そう考えるようになりました。不思議なのですが、そう考えて動いていると、本当に分かれていくんです。
「感情」と「意思」は似て非なるもので、異なる。少なくとも事業において必要になるのは意思のほうであり、感情ではない。

「どうやってモチベーションを維持していますか?」と聞かれたことがありました。「モチベーションの維持なんて考えたことがありません。気分の波によってアウトプットが上下するのはプロではないと思います。仕事において求められているのはやる気ではなくて結果です」と回答したことがあったように思います。こう書くとすごく冷たい気がしますね。(笑)
作家や表現者など、感じたことそのものが仕事とつながる職業であれば別だと思うのですが、感情と距離を置いたことで、個人的なことを人に話すのが逆に凄く苦手になってしまいました。

一気に一度にどうにかしようと、決めてしまわないと、と考える傾向もあったと自覚しています。何か”問題”があると、すぐに一度にどうにかしないとと自分に迫って考えてしまうのです。ある意味、最初の会社に入った時のエピソードにもそれが表れていたように思いますが、直近のことだけではなく先々のことまで、基本的には”決めておかないといけない”という謎の呪いも自分にかかっていたと思います。

ただ、この頃から徐々に、チーム作りや事業創りでも何でもそうだと思いますが、共感者や理解者を少しずつ増やすことが、活動を広げる一つ一つの一歩になっていると自分で考えられるようになりました。一気に、一度に、全てをまとめきれなくても、完結させなくてもいい。少しずつ徐々に広げていくことで、気が付けば積みあがっている、こんなところまで来ている。そういう風に日々の仕事を考えられるようになったのも、このあたりからだったように思います。

次のテーマに一歩踏み出したとき

途中、会社がM&Aをした会社を本体に吸収合併するという任務で、PMIとして子会社に出向させていただいていました。その任務が落ち着いてきた時に、上長から「次は何をやりたい?」と聞かれました。

その頃、コロナを契機に、今まで事業の中で必死になって推進していたリモートワークの働き方も加速度的に進んでいき、より一層働き方の多様性が広がってきていると実感していました。徐々に既存の人材事業の中で、「自分の手で進めたい」と感じられるテーマがなくなってきていることに気づいていました。
「最後にやりたいテーマは、ワーカーさんの経験やマインドを育てるようなことをやってみたい」と話したことで、ワーカーさんのマーケティング業務(toCマーケ)を担当させていただけることになりました。

コロナの影響が世の中に蔓延った2020年に、こんなことを考えるようになりました。

あんなに必死になって事業の中で推進してきたリモートワークが、やっと日本で強制的に導入されるようになった。働き方や仕事は勿論、それだけではなく、家族・家庭の築き方、どんな価値観を自分が重要視するか、自分はどう”生きたい”のかが、本当に1人1人に問われるようになっている。今まで”正解”だと信じていた生き方・働き方は、決して万人にとってフィットするものではないと、みんながやっと「気付いてしまった」。これはまさに、私がこの会社に入る前に直面していた課題。

きっかけは予期もしていなかった世界的な感染症だったが、いきなり「自分の人生や仕事、自分で考えてどうにかしてね」とに社会に投げ出されたところで、一般的な日本人は”自分の意思を表明する””自分で自分のことを意思決定する”トレーニングや経験を、ほとんどしてきていない。いや、それどころか、「自分が歩んできた人生は、実は自分が意思決定してつくってきたものではない」なんて、気づいたことも考えたこともない人がほとんどかもしれない。もしかしたら、気づかないままでいたほうが幸せなのかもしれない。

でも、この時代に生きていれば、きっとどこかで、誰しもが気づくのではないか?
自分の人生に正解なんてないってことを。

生きる、働く、選択肢を増やすことは大事。選択できることに越したことはない。でも、世の中にはもうあらゆる選択肢が溢れている。どの選択肢を”自分で”選ぶかが重要なのではないか。これ以上選択肢が増えたところで、自分で意思決定ができない人のほうが多いのではないか?

…そんなことを、ずっと考えていました。
実際、あくまで肌感ではありますが、当時「仕事を紹介してほしい」というユーザーさんからの相談だけではなく、「どう生きたらいいかわからない」という不安を打ち明けて下さる相談も増えてきていたことを覚えています。

どんなものがソリューションとなりうるのか、どういった形になるのかはまだわからない。でも、これをテーマにした事業を自分でやってみたい。
最初にクラウドワークスに入社した時に思ったように、これからの時代を”創っていく”側でいたいと思いました。

そこから、その時の自分の問題意識、関心を正直にお話しし、自分で事業として表現してつくっていきたいと、周囲の方に相談を始めました。
既存事業での業務と兼任しながら新規事業の準備をしていく選択肢もありましたが、私は比較的マルチタスクが得意なほうで、キャパシティもおそらく大きいほうだったので、既に既存事業の中で、自分に複数の業務や役割・ミッションが集中していると感じていました。何かと兼ねて事業創りを始めるのではなく、中途半端にならないよう、完全に既存事業から異動してコミットすべきだと考え、周囲の方に相談させていただきました。

会社で事業創りに挑戦させていただけるとなった後は、まず自分が感じている問題意識、関心、立てている問いの分析、考察、構造化から進めていきました。「自分の人生やキャリアを模索している、ずっと苦悩している」と話す方に、インタビューを何人も何回も実施させていただきました。

色んな方にヒアリングさせていただく中で、苦悩の時期がありながらも、最終的に自分で自分の人生を歩めている、意思決定できている、自分の人生を主体的に歩むことができている人たちに共通点があることが分かりました。
「自分一人ではなく、新たな場所、コミュニティに入っていった」ということがわかったんです。
今までその人を形成してきた、家族や幼いころからの友人、職場といったコミュニティだけではなく、それ以外の人と人との関係、接点、コミュニティに勇気をもって触れていくことが、人生の葛藤を乗り越えられる鍵なのではないかという形で仮説が一つ進化しました。

そこからは、誰かにとって新しい居場所、サードコミュニティ、サードプレイスとなりうるようなサービス、領域、ジャンルを幅広くリサーチし始めました。
その中で私が気になったのが、「暮らし」というテーマでした。暮らしや生活を通して誰かと出会うことが、一番その人の人生を変える可能性がある。継続的な関係性にもなりうる。単発のイベントなどで非日常から刺激を受けるより、暮らしという継続的なものを通して構築ができれば、ビジネスとしても最もマストハブになりうるし、ストック的存在となりうる。そんな風に、ここでまた新たな仮説を立てました。

実際に調べてみると、海外ではコミュニティを重要視するコリビングサービス、住施設の事例が多く見られました。ロンドンやニューヨークといった海外都市の方が生活コストが日本以上にかかるので、一人で暮らし続けることは経済的にも苦しく難しいことです。一人でずっと生きていくことの社会的孤独についても、海外では先だって深刻な社会問題になっていると知りました。

思えば私自身も、社会人になる前は「一人で何でもできるのがかっこいいい・立派だ」「人に頼らずに自分で何でも解決できるのが強さだ」と本気で思っていました。でもそれは間違っていたし、一人では苦しくて生きられませんでした。「自立」と「孤立」は違います。そんな時、障がいの当事者研究をしている、熊谷先生の言葉を思い出しました。(私は大学卒業時の卒論で”障がいのある方の経済的自立”について書いていまして、熊谷先生のお話も大学時代講義で一度聞いていました。)

小学生の頃、ふと、「親が先に死んでしまったら、自分は生きていかれない」と気づきました。当時の私は、生活全般、食事をするのも学校に行くのも、何でも親の介助を受けていましたから。この不安は年齢を重ねるにしたがって大きくなっていきました。親なしで暮らせる“実験”を早めにしておかないとまずいと思っていました。
それで、高校を卒業し東京の大学へ進学するのをきっかけに親から離れるというのが、最初で最後のチャンスになるような気がしたんですね。親は当然、猛反対しました。うまくいかなかったら帰ってきなさいとも言っていましたが、自分の中では、ダメだったら実家に帰るという選択肢は無かったですね。

出典:「自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと」
公益財団法人東京都人権啓発センター

一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされていますが、人間は物であったり人であったり、さまざまなものに依存しないと生きていけないんですよ。

東日本大震災のとき、私は職場である5階の研究室から逃げ遅れてしまいました。なぜかというと簡単で、エレベーターが止まってしまったからです。そのとき、逃げるということを可能にする“依存先”が、自分には少なかったことを知りました。エレベーターが止まっても、他の人は階段やはしごで逃げられます。5階から逃げるという行為に対して三つも依存先があります。ところが私にはエレベーターしかなかった。

 これが障害の本質だと思うんです。つまり、“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます。“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。世の中のほとんどのものが健常者向けにデザインされていて、その便利さに依存していることを忘れているわけです。

出典:同上

実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。障害者の多くは親か施設しか頼るものがなく、依存先が集中している状態です。だから、障害者の自立生活運動は「依存先を親や施設以外に広げる運動」だと言い換えることができると思います。今にして思えば、私の一人暮らし体験は、親からの自立ではなくて、親以外に依存先を開拓するためでしたね。

出典:同上

このお話を思い出して、人生や人と人との関係、居場所、コミュニティについても同じことが言えるなと確信しました。

一つの考えが、一人のことが、一つの価値観が、一つの居場所が自分にとっての全てであり、自分にとっての正しさの全てだと捉えていると、その一つが崩れていったときに、自分そのものが崩れてしまう

自分の人生を自分で主体的に歩んでいくとは、自分だけで考え、自分だけで行動すべきということではない。むしろ、色々なものに触れて、いろんな価値観に触れている中で、自分というものを捉えるということだと、確信しました。

そしてcircleが生まれた

そんな考えの経緯を経て、多拠点の暮らしのサービス「circle」は生まれました。正式なサービスローンチ前にテストマーケ、初期検証を実施していましたが、ほぼ構想していた通りにプロセスが進み、そのことに自分自身が一番びっくりしました。連携していただく滞在拠点集めや、初期のユーザーさん集めにおいても、大変であることはそもそも想定内ですが、ほとんど構想通りに進みました。

ここまでお話ししてきたような、サービスのコンセプト、根底の思想を大切にしながらいろんな方とコミュニケーションをとらせていただいたこと、いきなり物を作り始めずにアイディエーションを丁寧にやったことによって、ほとんどずれがありませんでした。基本的には、想定内のことで悩むことができたと思います。想定外だったことは、コンセプトの芯の部分に共感していただき、使ってくださるユーザーさんが最初からいらっしゃったことです。サービスを始めて数年程度は、色んな地域に訪れるのが好きなアクティブな方で、時間も資金も余裕があり、好奇心にあふれたユーザーさんが最初に使ってくださるだろうなと考えていました。サービスの芯のコンセプトが本当にユーザーさんの中に浸透していくのはもっと時間が経ってからだと思っていたので、このあたりは自分でも驚きました。

既存事業にいた時から事業開発、企画はやっていましたが、実際に一つ事業を自分でゼロからつくり上げることができたことは自信になりました。社内の人、社外の人、様々なステークホルダーに合わせて説明の仕方を変えていく、共感して協力していただけるように働きかけていくということも、今回の経験を経て少しずつできるようになったと思います。勿論まだまだですが、はじめの一歩としての経験はできたのかなと思います。

時代が変化しても、普遍的な価値があるものを創りたい

事業は全社の方針もあり、急遽クローズする形となってしまいましたが、ここまで私のことをサポートして下さった皆様、こんなspecialな経験をさせていただいた会社には、本当に感謝しています。

一人一人が、自分の人生を自分で意思決定していく。自分で道をつくり、歩んでいく。そんな人の、模索や不安に寄り添う。自分の手で何かをつくる。人と人が関わる。出会いや接点、場づくり、コミュニティ。このテーマは、今後私が新たにチャレンジしていくうえでも重要なテーマになってくると思うので、自分の人生のコンセプトの一つとして、考え向き合い続けたいと思います。

今回、実際に人が滞在する、暮らす、物理的にも人が行動するようなサービスをつくってみて思ったことがあります。オンラインで100%完結するような事業では、人の人生は変えられないと確信しました。

この事業を始める前は、オフライン領域があるような事業の方が人の生活に入り込みやすく、単価も上がりやすいのではないか、というビジネス的な側面として捉えていました。
リモートワークも進みましたし、インターネットはもはや特別ではなく当然の要素です。この事業に取り組んでみた結果として、オンラインだけでは誰かの人生に関わる、入り込むような事業はつくれないと思いました。

また、この会社に入る際には「時代の変化を作るような事業を作りたい」と思っていました。今もそれは思うのですが、加えて「どんなに時代が変化しても、普遍的な価値があるものを作りたい」という気持ちが少し大きくなっています。どれだけAIが進んでも、いろんな仕事が代替されても、人の生活は続きますし、人と人との関わりは続いていきます。

実際にこのサービスを運営して、私自身色々な地域に滞在したことで、こういう人と人との関わりは絶対になくならないと確信しました。また、サービスをつくって運営する中でいろんな方の人生のお話をお聞きすることが多かったのですが、人の人生のストーリーほど面白いものはありません。このストーリーは、AIには書けません。私の人生も、これを読んでいるあなたの人生も。

意思決定、選択、そんな言葉を沢山用いながらこの文章を綴ってきましたが、勿論、人生におけるあらゆる全てを自分で選択できる訳ではありません。コントロールできるわけでもありません。ただ、社会や他者のせいにせず、どんなものも”自分で選択した”と言える人生でありたい。振り返った時に、自分で受け入れて、歩んできた人生だと思いたい。そんな風に考えています。

ここまで読んでいただいた方には、私自身も勿論ですが、下記を自分に問うてみてほしいです。

あなたは、あなたの人生の、他でもない当事者になれているか?
あなたは、あなたの人生のハンドルを、自分で握っているか?
明日、人生が終わるとしても、今を選択するか?

最後の問いはスティーブ・ジョブズ風になってしまいました。(笑)
ちなみに、私のMBTIはジョブズと同じでした。(笑)

こんなことを日々考えつつ事業を運営していたからか、以前一緒に事業開発をしてくれていたSさんに言われたことがあります。
「circleって、事業というより、思想であり運動なんじゃないですかね。」

確かにな。そうかもな。しっくりきたことを覚えています。
これを最期の言葉として、このnoteを終えたいと思います。

今後は起業して、会社を作って活動していくことを予定しています。もし私が何かお力添えできそうなこと、形にできそうなこと、関われそうなことがございましたら、お気軽にご連絡をいただけますと幸いです。

また、今回のnoteに限らず、私が書いていた文章やcircleのnoteの中には、いつも書籍の名前が出てくることが多かったと思います。
私は、本との出会いは人との出会いであり、新しい価値観との出会いそのものだと思っています。こんなにも安価に、人の人生や考え、知識に触れられるものってないですよね!(私は10代の頃からずっと、その時どんな地域に住んでいても図書館を使っています。勿論本屋やkindleも使いますが!)

最後に、ここまでの私の人生を形作ったと考えている本を、読書リストとして添えておきます。経済古典、経営の本がちょっと多めですが、これを読んでくださった皆さんの、人生や思考のヒント、模索のヒントとなれば幸いです。

14歳で死ぬつもりでしたが、30歳まで生きることができました。
2024年4月5日 紺谷弥生

My読書リスト(と補足コメント。更新するかもしれません)

■革新とは、イノベーションとは
・シュンペーター『経済発展の理論』
・クリステンセン『イノベーションのジレンマ』
-今思えば、これらの本を通してイノベーションについて学び始めた大学時代から、アントレプレナーシップの芽のようなものが実は自分の中に育まれていたのかもしれないな、と振り返って思います。

■経済基礎
・マルクス『資本論』
・マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

■経営関連
・『コア・コンピタンス経営: 未来への競争戦略』
-こちらの本はもう絶版になってしまっているので、Amazon中古か図書館で借りるといいと思います。比較的読みやすいです。

■戦略論基礎
・楠木建『ストーリーとしての競争戦略』
・ポーター『競争戦略論』
‐いわゆる「選択と集中」や「差別化戦略」はここから始まっています。今はもうポーターは古いと言われることもあるようなのですが、基礎として読んでおいてよかったと思いました。「薄めて主張している最近のビジネス書」ではなく、「源泉」を古めの書籍を通して読むことの重要性を、大学時代の恩師であるゼミの教授から教えていただきました。

■新規事業、起業、起業家
・『起業の科学』
・映画「スティーブ・ジョブズ」
‐色んな起業家の方の書籍や自伝系のものを読みまくれば、必ず得ること、感じることがあるかと思います。ただ、ジョブズはやはり圧倒的なのでその人生には触れてみると良いんじゃないかなと思います。
その他、国内外の起業家・経営者の方の書籍はここに書ききれないほどかなり大量に読みました(最早覚えていないw)

■その他
・瀧本哲史『僕は君たちに武器を配りたい』『君に友だちはいらない』
・水野敬也『夢をかなえるゾウ』
-私はこの本を読んで、新卒入社した最初の4月に「私はこの会社ではない」と気づいてしまいましたw

・内館牧子『夢を叶える夢を見た』
-『終わった人』など、定年後のシニアの人生を描いた作品でも有名な作家・脚本家の内館牧子さんの本です。この本はドキュメンタリー的編集本で、転職や独立、難易度の高い夢などを抱えた人が、どんな「意思決定」をとったか、意思決定をした後どのようになったか、動くほうの選択肢を「飛ぶ」という言葉を使い、「飛んだ人」「飛ばなかった人」「飛んでよかったと考える人」「飛んで後悔した人」「飛ばなくて後悔した人」「飛ばなくてよかったと考える人」など、あらゆる人生の分岐とその後のストーリーを取材して紹介しています。単に「飛ぶこと」が正解じゃない。意思決定そのもの以上に、人は「意思決定したその後の結果」が知りたいのだ。今まさに重要な意思決定を抱えている人に、是非読んでみていただきたい本です。

・帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティー答えの出ない事態に耐える力』
-従来の日常生活や仕事では、課題を発見・特定して解決する能力が重要視されてきました。これが「ポジティブ・ケイパビリティ」です。ただ、それだけでは進めない難しい課題や状態、すぐに解決策を提示できないことを、個人としても社会としても抱えることが多くなっています。そんな時に重要なのは、早計に無理やり解を出そうとする力ではなく、「答えが簡単には出ないことを受け入れる力」です。あらゆる状態や課題に、すぐに答えを出さなければいけないと焦っていた自分に新たな引出しをもたらしてくれた本でした。同じように自ら焦りを感じやすいという方には、是非読んでいただきたいです。

・松下幸之助『道をひらく』
・渋沢栄一『論語と算盤』

・ドラッカー『明日を支配するもの』『ネクスト・ソサエティ』
・リンダ・グラットン『LIFE SHIFT』
-この2冊はクラウドワークスに入るきっかけとなった本です。未来の読み方、考え方が深まり、一つ確信を得るきっかけになりました。特にドラッカー『ネクスト・ソサエティ』は、肉体労働者から知識労働者に多くの働き手がシフトしていくこと、その一方で知識の陳腐化が早く教育が重要であること、働き方がアウトソースなど含め多様になり、企業と労働者の関係が変化すること、志をコアにした非営利団体の活動が台頭することなど、90年代の早い段階でこの本で予言していたので、確実に来る未来を先に読んでいるような感覚になりました。(あらゆる統計や予測の中で、人口統計とそれによる予測が最も外れないと言いますが、それを感じるような本でもありました。また、「課題先進国として日本が一番最初にこの事態に遭遇する」として、この本は世界に先駆けて日本で最初に発売されています。)

・(アニメとか漫画あるので必ずしも本で読まなくていいと思いますが)『三国志』
‐そもそも「戦略」とかそういう経営でよく使われる言葉たちは、全部もとは戦争から来ている用語なので、戦争や歴史の経緯は何かを題材に勉強するのが良いのではないかと思っています。

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