人生には意味も意義も存在しない
私たちは「ただそこに在る」だけでしかない。
ただ、私たちは自我を認識し、他者を他者として区別し、世界に世界と概念を付与し、混沌を整理整頓して秩序を与えた。言語によって思考が可能となり、言語によって意思疎通が高度となった。文字によって記録が具体的になり過去と今を明確にし、未来をイメージできるようになった。死を死として認識することで人生の有限性と消失の恐怖を抱くようになった結果、宗教が生まれた。抽象度の高い概念を操ることで目に見えないモノを具現化させ、世界を虚構で満たし、社会を文化を経済を政治を法律を芸術を哲学を生み出した。動作や行動に意味を付与し、技術を複雑化させることで創造性を加速させ科学を築き上げた。
私たちは世界を世界として存在していると信じているが、私たちが見ている世界は私たち人間が生み出した虚構の世界でしかない。世界はただそこに存在視しているだけであり、そこに意味も意義も意思も無い。
しかし、私たちはそれを疑うことはできない。否、疑ったところで意味がない。ならば虚構の世界で自身の存在を証明し、欲望を満たし、充実した日々を送る方が良い。少なくとも幸福だと信じることができるだろう。
だが…私たちはその「存在の証明」という欲望を強く抱き過ぎている節がある。
他者と比較し、妬み、苦しみ、悲しみに暮れる。なぜ私は生まれてきたのかと問いかけ、解答のない問いが己を蝕み疲弊していく。
私たちは「自分が存在する理由」を求めるようになってしまった。そんなものこの世界には存在していないのに。
自分が存在する「意味」は自分が定義するしかない
私たちは虚構を生み出し、存在させることができる特別な力を持っている。
この世界に「私が存在する理由」は無い。どこを探してもそんなもの落ちてるわけもなく、見つかることは永遠にない。
しかし、存在する理由を生み出すことはできる。それは抽象度の高い概念を操り、目に見えないモノに存在を与えることができる無限の創造性によって意味の付与が可能になるのだ。
もし「存在している意味が分からない」と悩んでいるのであれば、その悩みは残念ながら無意味な問いでしかない。その答えを世界は教えてくれない。誰も君に「存在する理由」を説明してくれない。
しかし、その問いを己にし続けることには意味がある可能性が微かに存在する。その問いを問いながら、苦しみながらも前進し、行動し続けると光が見える瞬間がある。
「そうか、このために私は存在していたのか」と君がもし心の底から思うことができたなら、その瞬間に過去の行動が全て肯定され、意味が付与される。「この世に生まれてきた理由」はその時定義されるのだ。
この世界は地獄だ。苦しいことが目につきやすい。周りと比較して己の未熟さに打ちひしがれ、消えてしまいたいと願う夜もある。
それでも私たちは前に進むしかない。
歩き続けるしかない。
世界は平等に流れ去っていく。時間は一刻と刻まれていき、私たちは死へと向かって老いていくのだ。どんな選択をしようと必ず死に向かって進んでいってしまう。ならば己が存在する意味が見つかるまで行動し続けた方が良い。
例えそれが地獄でも。