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【八幡宮の謎に迫る⑤】なぜ「八幡神」は出家して「八幡大菩薩」になったのか?

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市口哲也です。

八幡宮の神様である「八幡神」は、現代では「はちまんしん」または「はちまんのかみ」と呼ばれることが多いですが、本来は「やはたのかみ」です。

現在の九州の大分県、豊前国「宇佐神宮(うさじんぐう)」を本拠地とする神様です。宇佐神宮の創建は西暦571年とされます。

宇佐神宮創建から約200年後、「八幡神(やはたのかみ)」は出家して「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」となり、「八幡(はちまん)」の読みが定着していきます。

「八幡(やはた)」の由来は?

応神天皇の母である神功皇后(じんぐうこうごう)は、熊襲(くまそ)征討のために筑紫(九州)にいましたが、「新羅を攻めるべし」という神託(神様のお告げ)を受けて、三韓征伐(新羅出兵)を行います。

このとき神功皇后は、お腹に応神天皇を宿していました。新羅への往復路、対馬で祭壇に八つの幡(旗)を祀ったことが「八幡」の由来とされます。八つの幡は「八方位」に祀られたと考えられます。

「八」が末広がりで縁起が良いとされるのは、漢字の形が由来となっていますので、古代にその意味はありません。

古代の「ヤ(八)」には、二つの意味があります。「ヤタカガミ(八咫鏡)」や「ヤモ(八方)」の「ヤ(八)」は、そのまま数字の8の意味です。

もう一つの意味は「ヤヲヨロズ(八百万)」や「ヤヱカキ(八重垣)」の「ヤ(八)」で「たくさん」の意味です。

「宇佐神宮」の謎に迫る!

八幡総本宮である「宇佐神宮」には、上宮と下宮があり、独自の参拝作法があるなど、一般的な神社とは異なる点が多いといえます。

【宇佐神宮の謎①】

「宇佐神宮」の上宮(本殿)は、三つの御殿からなり、左の「一之御殿」に応神天皇、中央の「二之御殿」に比売大神(宗像三女神)、右の「三之御殿」に神功皇后をお祀りしています。

神道では、メインの神様を中央にお祀りします。しかし、宇佐神宮ではメインの神様である「八幡大神(応神天皇)」を左側の二番手の位置にお祀りしています。

これについては、725年(神亀2年)に現在の地に御殿を造立して「八幡神」をお祀りし、8年後の733年(天平5年)に神託(神様のお告げ)により、二之御殿が造立され「比売大神」をお祀りしたと宇佐神宮の由緒にあります。三之御殿が建立されたのは、823年(弘仁14年)とのことです。

【宇佐神宮の謎②】

「日本書紀」には、神代(神様の時代)に比売大神が「宇佐嶋」にご降臨されたとあります。「八幡神」については古事記、日本書紀に記述はなく、「続日本紀」には「広幡乃八幡大神」の記述はあるものの、それが応神天皇であるとは明記されていません。

また、「八幡神」は御託宣(神様のお告げ)で、出自について「昔は『震旦国(中国)の霊神』だったが、今は日本国鎮守の大神なり」としています。「八幡神」の正体については、次の記事で解説します。

歴史書「ホツマツタヱ」には、比売大神(宗像三女神)とされる「三つ子の三姉妹(タケコ、タキコ、タナコ)」が、母のハヤコ伯母のモチコとともに、皇室からウサ(宇佐)に降った経緯と、八岐大蛇九頭龍につながる話が記されています。また、この前後の話が「大祓詞」の内容を示していると考えられます。

「八幡神」と「聖武天皇」の関係に迫る!

聖武天皇の時代

聖武天皇は、724年(神亀元年)に第45代天皇に即位します。737年(天平9年)に天然痘の大流行、その後、反乱や大地震(745年の天平地震)などが起こり、聖武天皇は不安定な世を救うために仏教を深く信仰します。

741年に国分寺建立の詔、743年に東大寺盧舎那仏像の造立の詔が出され、全国に寺院を建て、奈良の大仏制作が進められます

大仏は745年から制作が開始され、752年に開眼供養会(完成披露と魂入れの法要)が催されました。聖武天皇は749年に譲位した後、756年に崩御されます。

「八幡神」大仏建造協力の託宣と「手向山八幡宮」創建

749年「八幡神(やはたのかみ)」の大仏建造協力の託宣(神様のお告げ)を、宇佐八幡宮の禰宜尼が上京して朝廷に伝えます。つまり、神様が「自ら」大仏の建造に協力すると申し出たのです。

これにより「手向山(たむけやま)八幡宮」が創建され、「八幡神」は全国の国分寺の総本山である東大寺の鎮守神となります。

聖武天皇の祟りを防ぐための「八幡大菩薩」?

「八幡神(やはたのかみ)」は宝亀8年(777年)に出家し、天応元年(781年)に「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」の号が贈られています。

これにより鎮護国家、仏教の守護神として、全国の寺の鎮守神として勧請(神様を分霊として迎える)され、「はちまん」の読みが定着していきます。

これには、聖武天皇が崩御した後、娘の称徳天皇と井上内親王が亡くなって血統が途絶えたことや、天災が続いたため、聖武天皇の祟りと恐れられたという背景があります。

崩御した聖武天皇は「八幡神」と習合(結合)したと考えられ、「八幡神」に菩薩号を与えて、聖武天皇が深く信仰した仏教の守護神とすることで、その祟りを防ごうとしたのではないか、ともいわれます。

平安京への遷都と「石清水八幡宮」創建

奈良の平城京で、仏教の守護神としての地位を確立した「八幡神(やはたのかみ/はちまんしん)」ですが、その一方で「道鏡事件」では政治に利用され、政争に巻き込まれます。

そして、政治の中心地は、奈良の平城京から京都の平安京へ遷ります。その目的は仏教勢力との決別でした。仏教の守護神である「八幡神」は、またも政治の影響を受けることになります。

しかし、貞観元年(859年)、現代では三大八幡宮の一つといわれる「石清水八幡宮」が山城国男山に遷座され、朝廷から篤く信仰されます。

「八幡大菩薩」となってから約80年後、京都でも地位を確立した「八幡神」ですが、その道のりには紆余曲折がありました。それについては、次の記事で詳しく解説します。


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