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吉田遼平評 ジェスミン・ウォード『降りていこう』(石川由美子訳、作品社)

黒人の血をめぐる苦悩の元凶に向かって――『神曲』をモチーフとした自由を求める旅と闘争

吉田遼平
降りていこう
ジェスミン・ウォード 著、石川由美子 訳
作品社

■ 女性が自らの意思で妊娠中絶する権利、リプロダクティブライツの重要性を訴え続けていたカマラ・ハリスが十一月のアメリカ大統領選挙で敗北した。それとほぼ時を同じくして、ジェスミン・ウォードの最新作の邦訳が世に出された。皮肉なことに『降りていこう』の主人公アニスは一八〇〇年代初頭のアメリカ南部で、ある黒人奴隷の女性が白人領主によって何度も強姦された結果生まれた存在である。
 屈辱的な妊娠だった。また奴隷という身分である以上、いつか親子は離ればなれにされてしまう。同じ奴隷の中には「どうせ手元に残せないなら」と、自分の子どもと距離を置く者がいる中で、母親のサーシャはできる限りの愛情を娘のアニスに注いだ。
 母サーシャは領主の目を盗み、木で作った槍を用いた戦い方をアニスに厳しく教え込む。すでに他界しているサーシャの母親、つまりアニスの祖母アザもまた奴隷だったが、その昔彼女は西アフリカのダホメ王国の女戦士だった。そしてある日アニスは、アザがアフリカで象を狩ったときに手に入れたという錐のような象牙のかけらを母サーシャから譲り受ける。
 だがサーシャが伝えたかったのは、その槍や象牙の錐で憎き領主を刺し殺せ、ということではなかった。奴隷が領主を攻撃するとなれば、その代償は計り知れない。搾取され続けた挙げ句、報復として一度人間を刺せば死んでしまうミツバチのような人生を娘のアニスに送って欲しいわけではなかった(ミツバチの針には「返し」がついていて、刺した後飛び去ろうとすると、一緒に内臓の一部が引きずり出されて死に至る)。では何故母サーシャはアニスにわざわざ戦い方を伝授し、象牙の錐を託したのか。その真意は「あんた自身が武器」という台詞に集約されている。
 奴隷制の歴史を辿ってみると、アフリカからの最初の奴隷がアメリカに到着したのが一六一九年、そして一八〇八年になってようやく国外からの奴隷貿易を廃止する法律が施行される。一八六一年には南北戦争が勃発。一八六二年にリンカーンが奴隷解放を宣言し、一八六五年、南北戦争終結。奴隷制を禁止する合衆国憲法修正第十三条が発効する。その約二五〇年間、アメリカでは奴隷制の上に社会が成り立っていた。そして奴隷制廃止から現在まで、まだ約一六〇年しか経過していない。長きに渡る不条理な支配の歴史。アメリカ社会の根底にこびりついた奴隷制の残滓は、そこに生きる黒人の尊厳を今なお脅かし続けている。これまでジェスミン・ウォードが『線が血を流すところ』『骨を引き上げろ』『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』の三部作で描き続けてきた、現代のアメリカにおける黒人の血をめぐる数々の苦悩の元凶に、私たちはいよいよ足を踏み入れていくことになる。
タイトルの『降りていこう』はダンテの『神曲』「地獄篇」の一節から取られており、本書のモチーフとして作中で何度も引用される。人生の道半ばにして暗黒の森に迷い込んだ主人公ダンテは、詩人ウェルギリウスに導かれ、天国を目指すべく、まず一度地獄の底へ降りていく。『神曲』は人としての正しき道を踏み外したダンテが回心するまでの過程を描いた物語だと言われているが、『降りていこう』は奴隷として生まれたアニスの自由を求める闘争を描いた物語である。ダンテが天国に行くために地獄を通らなければならなかったのと同様、アニスは真の自由を享受する前に、一度すべての自由を失うことになる。
『降りていこう』でアニスの案内役、いや旅の同伴者となるのは、気まぐれなブードゥー教の精霊である。『神曲』のダンテは物語の冒頭から師と仰ぐ詩人ウェルギリウスに導いてもらおうと懇願する一方で、アニスはその精霊の力を借りつつも、自らの意思で進むべき道を選ぼうとする。この違いは一体何を示唆しているのだろう。『神曲』はカトリックを土台とした物語である。作者のウォードは『神曲』の「迷える人間が偉大な存在に導かれ救済される」という構図を、そのまま自らの作品に適用するのを意図的に避けたのではないか。ブードゥー教はアニスの祖母アザが生まれたダホメ王国の民間信仰と、カトリックやその他の宗教が融合することで生まれた。白人領主と黒人奴隷の間に生まれたアニスと行動を共にする存在として、カトリックとアフリカの土着信仰、両方の性質を持ち合わせたブードゥー教の精霊は、まさに適役であると言える。
また『神曲』と『降りていこう』で描かれる森の印象は対照的で、そこにはカトリックとブードゥー教それぞれの森に関する捉え方の違いが反映されていると言える。西欧文明においては古来より「森=混沌」というネガティブなイメージがあるが、ブードゥー教で森は神聖で崇められるべきものとされる。ウォードのこれまでの作品の舞台がボア・ソヴァージュという名のミシシッピ州にある架空の街であることからも、ウォードの森に対する特別な思いが伺い知れる。
ウォードはコロナウィルスが世界中に蔓延し始めた二〇二〇年一月に最愛の夫を亡くしている。「息ができない」というBLM運動を激化させる引き金となったジョージ・フロイドと同じ言葉を残し、夫は三十三歳という若さでこの世を去った。ウォードは深い悲しみに打ちひしがれたが、その別離無くして『降りていこう』がこの世に生まれることはなかっただろう。様々な別れを経験しながら奴隷という境遇や残酷な出自の呪縛から開放されようと足掻くアニスの姿は、反抗する意志を失わぬ限り、人は決して敗北することはないのだと私たちの心に訴えかけてくる。
 (高校英語教師/翻訳者)

「図書新聞」No.3670・ 2025年1月11日号に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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