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眞鍋惠子評 リュト・ジルベルマン『パリ十区サン=モール通り二〇九番地――ある集合住宅の自伝』(塩塚秀一郎訳、作品社)

パリの下町で名もなき無数の人々を見守ってきた集合住宅の物語――細い糸をたぐるようにしてたどり着いた二〇九番地の住人たち

眞鍋惠子
パリ十区サン=モール通り二〇九番地――ある集合住宅の自伝
リュト・ジルベルマン 著、塩塚秀一郎 訳
作品社

■物語の始まりはネットで見つけた地図だった。一九四二年から四四年のあいだにパリから強制収容所に送られた子供の分布を赤丸で示した地図。そこに現れるひとつの建物が本書の主人公だ。タイトル『パリ十区サン=モール通り二〇九番地 ある集合住宅の自伝』にあるように、一八四〇年代の建設から現在に至るまで、この集合住宅に暮らしたあまたの人々のストーリーが形作る、ある建物の伝記である。
 著者のリュト・ジルベルマンはポーランド系ユダヤ移民の子孫で、パリ生まれのドキュメンタリー映画監督であり文筆家だ。二〇一八年の映画『パリ十区サン=モール通り二〇九番地の子供たち』は、本書の姉妹編のような作品となっている。
 主人公である集合住宅はどんなところか? 建設当初は小間物屋の店舗や玩具職人などの仕事部屋が中心を占めていた。やがて、小規模な庶民用住宅が多くなる。一九二〇年代以降、東欧からのユダヤ人移民が多く住みついた。建物全体が不動産業者に売却されると、一九九〇年代末から多くの賃借人は退去し、若いカップルが購入した部屋を改装して住まうようになった。小さな住宅がまとめられてひとつの住居となり、場所によっては八部屋あったフロアに現在は三戸しかない。多くの住宅の入り口の扉が壁の奥に消えてしまったが、昔からの借家人も多少は残っている。現在は多様性を願う若き不動産所有者と未だに共同トイレを使う労働者や賃借人が共に暮らしている。
 物語の中心を成すのは、映画でも取り上げられた一九四〇年代前半に二〇九番地に住んでいた人々。第二次世界大戦中、フランスがドイツに敗北して成立したヴィシー政権のもとで、ユダヤ人への締め付けが厳しくなる。二〇九番地のユダヤ人にも招集状が送付され、出頭すると逮捕され、収容所に移送されていった。一九四二年から二年間でここから強制収容所に送られたのは総勢五十二名。当時のユダヤ人居住者の約半分に当たる。なかでも「ヴェル・ディブ事件」と呼ばれる四二年七月十六日の大量検挙では、ここからひと晩で十八人の逮捕者が出た。強制収容所に送られた子どもは九名。その中で生還したのはひとりだけだった。
 これらのデータは、著者の粘り強い調査でわかったものだ。始まりは逮捕された子供たちの分布地図の名前。二〇九番地に書き込まれた九つの名前を、パリ市立古文書館に保存された住民調査の記録の中から探し出し、家族の名前や国籍、生年をリストアップする。調査書に現れる順番から何階のどの部屋にどの家族が住んでいたのか推測する。電話帳で子供の名前を探してみる。戦争中に身を隠していた子供たちに関する書籍に、「検挙中にサン=モール通り二〇九番地から脱走した体験談」を見つけてその筆者に電話をかけてみる。このような地道な調査が少しずつ当時の住人の姿を明らかにしていった。本書ではその過程が時系列で語られるので、読者は著者と一緒にドキドキしながら調査を進めている気分になる。
 調査の一例を紹介しよう。前述の体験談の筆者は現在オルレアンに住むシャルル・ゼルヴェール。電話で「二〇九番地」という名前を聞いて、快く思い出話をしてくれた。一九四〇年生まれ。一九四二年の一斉検挙を辛くも逃れ二年間、両親と離れて匿われていた。彼が今でも連絡を取り合っているのは、戦争当時二〇九番地きっての大家族として著者が注目していたディアマン家のオデットだ。現在八十五才でイスラエルに住んでいる。電話で話を聞くと、一緒に小学校に通っていた女の子の名前を教えてくれた。ベルト・ロリデール。その名前をネットで検索すると、アメリカユダヤ人救済組織に記録があり、一九五一年にメルボルン行きの船に乗ったという事実が分かる。「遠い未知の大陸に届けるべく瓶を海に流すように」メルボルンの新聞数紙に広告を出してみる。数週間後、連絡があり、存命のベルトとスカイプで話すことができた。
 細い糸をたぐるようにしてたどり着いた二〇九番地の住人たち。そのプロフィールから当時の生活を想像し直接話を聞けば、多種多様なストーリーが現れる。幼いころに両親と別に匿われて生き延びた子どもは、「置き去りにされた」と思いこみ心に傷を抱えながら老人になった。近所のユダヤ人を自室のベッドの下に隠して、あるいは自分の表札をユダヤ家庭の部屋に掲げて守った人がいた。アウシュビッツから生還した人は、ナチの親衛隊が親から引き離した子どもをひとりずつ掴んで貨車の中に放り投げる光景が忘れられない。そのため子どもを抱きかかえる力や勇気を取り戻すまでに何十年もかかり、自分の子どもを抱くことはできなかった。
 二〇一六年六月、著書は判明した一九四〇年代の住人のうち生き残った人や親族を二〇九番地に招待した。全員は揃わなかったものの来訪が可能な者が集い、約七〇年振りの再会や亡くなった親から伝え聞いた人物との邂逅を果たした。その会話に現在の二〇九番地の住人も加わり、建物の歴史に新たな一ページが開かれ、続いていく。
著者がたぐり寄せたストーリーで綴られた建物の自伝は、同じ場所で、同じ空を見て、同じ敷石を踏んできた多くの人々が心に抱く二〇九番地という「ふるさと」の物語である。その読者はそれぞれ自分の「ふるさと」に思いを馳せるだろう。
 (翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3662・ 2024年11月9日号に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

 

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