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小平慧評 大場健司『1960s 失踪するアメリカ――安部公房とポール・オースターの比較文学的批評』(春風社)

評者◆小平慧
「アナキスト」安部公房の姿を描き出し、読者の読みの可能性を広げる「批評」書――安部公房はアナキズムを我がものとしていく際、海外文学を糧にした
1960s 失踪するアメリカ――安部公房とポール・オースターの比較文学的批評
大場健司
春風社
No.3586 ・ 2023年04月08日

■本書は、安部公房の作品について、主にアメリカ文学のさまざまな作品と比較しながら読み解く。大きく扱われる安部の小説作品は二作。昆虫採集に出かけた男が、砂丘に取り囲まれた集落に囚われて、一人の女と暮らすことになる『砂の女』(一九六二)。そして、失踪した夫を探してほしいと依頼を受けた興信所員の「ぼく」が、やがて自分を見失っていく『燃えつきた地図』(一九六七)。いずれも「失踪」をめぐる物語だ。
 第一部は主に『砂の女』を扱い、同時代にすでに邦訳されていた、ポール・ボウルズの『極地の空』、T・S・エリオットの長詩『荒地』といったアメリカ文学作品と比較する。さらに、現代アメリカ文学の作家ポール・オースターが安部の作品を読んでいた事実を踏まえ、作品に共通するモチーフを挙げながら、「オースターの『闇の中の男』に寄り道することで、安部公房『砂の女』をどのように読むことができるのか」を問う。
 第二部は『燃えつきた地図』を扱う。安部がカフカやサルトルといった実存主義の文学に影響を受けたこと、また、サリンジャーやマラマッド、フィリップ・ロスといったアメリカのユダヤ系作家に関心を寄せていたことに注目。それらをコンテクストとして、安部がアメリカの「都市」についての思想を深めていったことを論じている。さらに『燃えつきた地図』を、十九世紀のアメリカ人作家ナサニエル・ホーソーンの短編「ウェイクフィールド」や、オースターの作品群と接続し、「都市」での「失踪」を扱った物語の系譜を提示して見せる。
 第三部では安部の非フィクション作品に光を当て、一世を風靡したビートルズに関する論評から、SF映画『2001年宇宙の旅』、一九六八年に行われた「明治百年」の記念式典まで、同時代の言説状況を踏まえ、安部の作品の政治性や文明論的な性格を明らかにしていく。
 全体を通じての趣旨は、「アナキスト」としての安部公房を描き出すことである。安部は日本共産党の党員だったが、一九六二年に除名されている。共産党員としての「政治的」な作家だった安部が、除名を機に「芸術的」な作家への変化を遂げる――従来の研究で展開されがちなこのストーリーを著者は批判する。単に「芸術的」とされてきた一九六〇年代の安部作品に「『国家』からの『失踪』というアナキズム」としての政治性を見出すことで、政治的か芸術的かの二項対立を離れ、共産主義に還元されえない安部の政治性をあぶり出す。安部がそのアナキズムを我がものとしていく際、海外文学を糧にしたというのが、本書の中心となる指摘なのだ。
 それを論じる方法論として、本書は「単語レヴェルでの類似」に注目する。たとえば、エリオットの『荒地』と比較する議論では、『砂の女』で女が口ずさむ、「ジャブ ジャブ ジャブ ジャブ/何んの音?」という歌の表記に著者は注目する。『荒地』には複数の翻訳があったが、詩人・英文学者の西脇順三郎の訳のみが「何んにも」というように、送り仮名の「ん」を挿入する表記を採用していた。これほどまでの細部に着目することで、安部と『荒地』を結ぶ一本の線が引かれるのだ。
 これは現代の読者が過去の文学作品を読むときに、「ノイズ」として捨象しがちな細部と言ってよい。しかしそこに、読みの可能性や、おろそかにできない重みが隠されていることを、本書は教えてくれる。こうした細部へのこだわりや同時代の言説への目配りは、研究においてはある意味で「当たり前」なのかもしれないが、研究者でない読者にも、過去の文学作品をいかにして深く読むかの一例を見せてくれる。
 また、本書で展開される、安部のアナキズムの読解は、さらなる思考に読者を誘い、読みの解像度を上げることを要求する。たとえば『砂の女』をひもといてみれば、主人公が囚われた集落の住民はこう言う。「私ら、はっきり愛想つかしております(略)役所なんぞに、まかせておいたら、それこそ、そろばんはじいている間に、こちとら、とっとと砂の中でさあ……」。一読して、社会から半ば隔絶された集落での、「お上」の統治の否定という意味では、これもひとつのアナキズムではないかと思える。しかし、『1960s』でも著作が引かれる鶴見俊輔の言葉を借りて、アナキズムを「権力による強制なしに人間がたがいに助けあって生きてゆくことを理想とする思想」とするなら、主人公を束縛して砂かきに従事させる、見えない強制力の張り巡らされたこの集落は、安部のアナキズムとはむしろ対照的に見えてくる。
 本書の副題は「安部公房とポール・オースターの比較文学的批評」であり、「研究」ではなく「批評」と題されている。「研究者」ではない読者にも、作品をより繊細に読み解く可能性を開いてくれるのが「批評」だとするなら、これはその名にふさわしい一冊だ。
(翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3586 ・ 2023年04月08日(日)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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