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眞鍋惠子評 原田マハ『板上に咲く――MUNAKATA‥Beyond Van Gogh』(幻冬舎)

〈ひまわり〉に魅せられた男の冒険を支えた妻が語る「世界のムナカタ」誕生の物語

眞鍋惠子
板上に咲く――MUNAKATA‥Beyond Van Gogh
原田マハ
幻冬舎

■「スコさは、ゴッホになるんだもの。世界一の絵描きになるんだもの」これは棟方志功の妻の言葉。日本を代表する版画家を生涯支えたチヤが抱き続けた信念である。そしてこの言葉どおり、彼は「世界のムナカタ」となる。
『リボルバー』『風神雷神』『たゆたえども沈まず』など美術作品をテーマにした小説を数多く発表しているアート小説の名手、原田マハの最新作が『板上に咲く MUNAKATA: Beyond Van Gogh』だ。昭和初期まで芸術的価値が認められていなかった木版画を、個性的で西洋の絵画に追従するどころか越えるような芸術分野として切り開いた棟方志功の軌跡を、夫を固く信じて寄り添った妻の視点で追っていく物語。
 棟方志功は一九〇三年青森県生まれ。鍛冶屋の三男坊で弱視だった。視力が弱い目にも飛び込んでくるねぶた祭の山車の絵が大好きで、幼いころから自分でもまねて描いていた。十七歳のとき、人生を決定づける出会いがある。画家志望仲間に見せてもらった雑誌「白樺」に載っていたフィンセント・ファン・ゴッホの〈ひまわり〉。目を奪われた志功は「ワぁ、ゴッホになるッ!」と叫んでいた。その〈ひまわり〉のページは切り取られて志功の仕事場の壁に貼り付けられ、以来ずっと彼を見守り続けた。上京した志功はゴッホを目指して油絵を描き、五回目の応募で初めて帝展(帝国美術院展覧会)に入選。里帰りしたときたまたま立ち寄った弘前で、看護婦として働いていたチヤに出会い、結婚した。
 結婚当初、ふたりは別居生活を送る。帝展に入選したものの絵だけでは生活できない志功は友人の家に居候し、納豆売りなどのアルバイトをして糊口をしのぐ始末。妻のチヤは東京で一緒に暮らす日を夢みて、青森で待っている。その間に長女も生まれるが、なかなか東京へは呼んでもらえない。「何と言われようと行ってやる。││東京へ」。業を煮やしたチヤは一歳になる娘の手を引いて上京、居候先に押しかけた。長男の出産後ようやく家族四人で暮らし始めるが、米を買う金もなく野草を食べる日々が続いた。
 憧れてゴッホになりたいと願っていた志功だが、やがてゴッホがパリの博覧会で目にして夢中になった浮世絵、つまり日本の木版画の道を進もうと決意する。西洋のものまねではなく、日本の芸術を極めようと思ったのだ。「ゴッホのあとを追いかけるのではなく、ゴッホが進もうとしたその先へ行くのだ。││ゴッホを超えて」。その決意の裏には別の理由もあった。幼いころから弱視だった目が、ますます見えなくなっていた。それでも版画なら触って確かめながら作っていける。志功は板木に這いつくばるように顔を近づけて、己の内側からあふれ出るイメージを全身を使って彫っていった。
 西洋では色と見なされない「黒」と「白」の魅力を活かした志功の独特の作風は、徐々に芸術家たちの間で知られるようになった。しかし彼は飽き足らず、版画の新しい形を模索し絵巻版画を考案。それが偶然、民藝運動の中心的人物、柳宗悦や濱田庄司の目にとまる。逸材を発見したと直感した彼らの支援を得て、志功は活躍の舞台を広げていった。
 もちろんすべてが順風満帆に進んだわけではない。自信作が認められなかったり、左目の視力を失ったり。そのたびにチヤは陰で涙を流し、黙って志功を支え続けた。「たやすくはない道。到達点はまったく見えない。……進むしかない。私が後押しする。そうして、どこまでも進むのだ」「どんな反応であったにせよ、どんな言葉をかけられたにせよ、私は、帰ってきたあの人を心いっぱい迎えよう」。またチヤは芯の強い女性であった。疎開先からひとり東京に戻り、板木を家具の梱包材にカムフラージュさせるという機転を利かせて、芸術品は受け付けない荷物運搬所から志功の作品の疎開に成功。間一髪のタイミングで東京大空襲から大切な作品の板木を守ったエピソードもある。
 生き生きとした津軽弁に彩られたふたりのストーリーは、あたかも棟方の作品のように勢いがある。志功とチヤが発するような湧き出る熱量で、読んでいる者を圧倒しグイグイと引っ張っていく。
 仕事場の壁に貼られた〈ひまわり〉の複製画に幾度となく手を合わせ祈り、励まされ導かれ見守られ、芸術としての版画の高みを目指してどこまでも進もうとする棟方志功。チヤはあるとき気付いた。「自分はひまわりだ。棟方という太陽を、どこまでも追いかけてゆくひまわりなのだ」と。あなたもチヤと一緒に、小柄でどことなくやんちゃな子熊のような風貌の男の、自分の芸術を携えて世界に挑む冒険を追いかけてみませんか。
 眞鍋惠子(翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3642・ 2024年6月8日に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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