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少なくとも、この無駄話は笑えはするのだ

 窓から見える家々の屋根たちが、無軌道な住宅建築の強欲さを報せている。工事の音。また近くの林が伐採され、そこに新たな住宅が建つのだ。この国のほとんどの人々はもう既に家を持っているというのに、一体なぜ家作りは留まることを知らないのだろう。背骨館次郎(せぼねやかた・じろう)は、沢山の屋根が作り出す幾何学模様に目をやって、取り留めもなくそんなことを考えていた。

 背骨館は、作家の背骨館一郎(せぼねやかた・いちろう)氏を兄に持つ、奇古道具屋だ。奇古道具屋と言っても、それだけでは商売がなりたつわけもなく、もちろん普通の古道具も取り扱っている。着古した古着、寄付寄贈された書物、価格の起伏の激しい骨董。
 だが、背骨館が本当に得意としている道具は、飽くまで奇古道具だ。奇古道具とは読んで字の如く、不思議な由来を持つ古道具のことである。不思議な由来、といえど、それがノンフィクションである必要はない。つまり、面白可笑しい奇談巷談と共に、二束三文の品を売り買いしようという道楽じみた商売なのだ。

 なので当然、奇古道具などよりも、きちんとした骨董や実用品たちの方が売れる。ただでさえバブルが弾けて以来、我が国の経済は冷えきる一方で、挙げ句の果てにこの訳のわからない感染症騒ぎだ。アルコール消毒などすれば、塵となって消えそうな古道具など誰も買うわけがない。
 しかしそこはそれ、背骨館は本物の通人である。世のマスク騒動や政治家への批判などに関する、上を下への大騒ぎになど目もくれず、今日も売れもしない奇古道具を仕入れては、悦に浸っているのだった。
 
 「次郎よ。この店、また品物が増えたんじゃないか?」
 背骨館一郎氏は執筆の合間に店に来ては、困った愚弟へ説教をする。説教とは言うものの、要するに茶を飲む間の暇つぶし、無音もなんだからと口ずさむ鼻歌のようなものなのだが。
 「そうなんです、兄さん! 素晴らしい品物が入荷しましたよ! 例えばこれなんてどうです?」
 そう言って背骨館氏が取り出したのは、古い木箱で、それは経年劣化によって黒く変色して、ぼろぼろの紐によって封をされている。
 「これはね、十六世紀に開発されたとある薬の容器が入ってる木箱なんです。このね、この巻物。よいしょ、っと。これにこんな記述があります。千五百八十三年、太閤秀吉が大阪城を築いた年ですね。その年に、大陸でとある奇病が流行ったと。これがまた不思議な病気でしてね。そしてそれが日本でも少しだけ流行ったそうなんです。……続き、聞きたいですか?」
 一郎氏はうんざりしてもいたが、湯のみ茶碗の中の緑茶が無くなるまでは暇だったし、話の続きを聞くことにした。愚弟はにっこりと笑って、咳払いをひとつ。それでは、と語り始める。

 それは古い花瓶だった。薔薇色のワンピースを着た女が、持ち込んだのだ。
 「これは、花瓶ですか? 随分古いようですが」
 「此処は不思議な品を買い取ってくれるって聞いて」
 女の瞳は帽子のつばで隠れていて見えなかった。
 お話を伺いましょう。
 「はい。この花瓶はとある蚤の市で見つけて買ったんです」
 女が言うには、その日はよく晴れた美しい休日だったそうで、氣分が良く予定もなかった彼女は、近所の蚤の市にぶらぶらと出掛けていったのだそうだ。
 特に何を買おうとも決めずに歩いていると、この花瓶が目に入った。現代建築家が青山あたりに作った、暖かみを削いでデザインされた建物のようなシンプルな形状。半分から上は淡いクリーム色で、足下は湖のような、これもまた淡い青で塗られている。とても可愛らしく思ったのだと言う。色の分け目の部分に水に浮かぶ蓮の花が小さく、ぽつんと描かれていた。

 お嬢さん、これが気になったのかい。お目が高いね。これはれんじ、という花器で、十六世紀の品だよ。豊臣秀吉公が気に入っていたと言われる逸品でね。
 花瓶の前に座った人の良さそうな老人は、嬉しそうに花瓶の曲線を撫でた。過去の巨匠の手作業を思い、その痕跡を愛おしむように。
 「れんじ? どういう字を書くの?」
 「蓮の花に慈愛の慈だ。蓮慈。ほら、此処に蓮の花が浮いているだろう? 池に浮かぶ蓮を慈しむ。そんな小さな侘び寂びにもきちんと氣付きなさいという教えを描いた、とてつもない傑作だな」
 誰の作ですか? と言うと、老人はにやりと笑った。そこが味噌なんだ、お嬢さん。
 「誰の作かわからんから、こんな蚤の市に出品できるんだ。でなければこんな傑作、今頃は美術館のケージの中で息を殺しているさ。寝室中に鼾を撒き散らす古女房を起こさないように、すっかり身を硬くした中年亭主のようにな」

 怪しいですね。背骨館はそう言った。
 ええ、怪しいです。ワンピースの女も笑った。
 怪しいというより、もはや信じる方が莫迦です。そう言って。
 「でも、買ったんだろう? その女はその花瓶を」
 背骨館一郎氏が茶を啜る。ずずず。この店で飲む茶は渋くて埃っぽいのだが、その奥で新緑色の甘みがこちらの様子をうかがっている。真冬の北風の手に引かれて、おずおずと顔を覗かせる春の兆しのように。
 「そうなんです。買ったから、僕の店に持って来れたわけですねえ」
 じゃあ、莫迦か。いえ、高価なものかどうかは、正直どうでも良かったらしいんです。それなら、何の為に買ったんだ?

 「旅先のあわあわとした、水彩画の中に入ったような輪郭のはっきりしない感じ。現実と地続きの非現実。親戚たちと円になって眺めた祖母の遺骨とよく似た、白でも灰色でもない曇り空。そういうものに似ている氣がしたと、こう言うんですね」
 旅立ちと死は、私にとってよく似たものだから。女はそう説明した。
 「祖母が死んだ時も、友人が自死した時も、悲しかった。悲しかったけれど、消えてしまったようには思えない。遠い異国にでも行ってしまったような、もう当分は会えないけれど、それでもどこかで存在しているような不思議な氣持ちになったんです」
 だからかもしれません。
 「この花瓶を持っていれば、現実と非現実の境界線をぼやけさせることが出来るんじゃないかって。きっとそう思ったんだと思います」
 
 「で、薬と奇病の話はどうした? 花瓶と何の関係がある?」
 「慌てないでくださいよ。慌てるなんとかは貰いが少ないってね」
 誰が乞食だ。一郎氏は失礼な弟に諌められて、腹立たしいような、恥ずかしいような氣分になった。
 声が聞こえるのだ、と女は言ったんです。
 花瓶を買って来た女は、部屋に置いて花を活けた。そこまではよかった。花瓶は女の家の窓際によく似合った。だが、夜中になると声が聞こえる。《水を入れ過ぎだ》とか《ここでは日が当たらない》だとか、なんとか。
 怪談話だな。ええ、そうなんです。兄弟は顔を見合わせる。
 「しかし、その女はそれを望んでいたんだろう? 死後の世界と現世の境界線をぼやかすことを」
 「僕もそう思ったんですがね」

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