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竹田青嗣式 現象学の欠点 哲学のテーブルに誰も着席しない問題

竹田青嗣『超解読! はじめてのフッサール『イデーン』』が出たので早速、買ってざっと読んだ。

竹田青嗣さんの哲学に長らくはまってたが、いつの日かあまり読まなくなった。
というのも、
竹田現象学の核は、
現象学は普遍認識の方法である!
ということで、
信念対立を乗り越える手段である!
そして、何故そう言えるか?
というと、
客観とは、主観内で確信の程度の強いものである、
というパラダイムシフトを軸にしている。

これは目からウロコであり、
この説明が延々となされている。

一時夢中になったが、
しかし、これは分かる人はわかっている事実である。

竹田現象学では、
哲学(=現象学)の鍵は、「公共のテーブル」であり、これは当初ハンナ・アーレントにより提唱されたもの。

科学が「唯一の真理」を追究するものだとすれば、哲学はひとつのテーブルで議論しあい「真理」では無く「お互いの合意」を目指すもの。そして多くの人がそもそも論的に、最終根拠を自分の主観において共通了解できるものが多いものが、普遍に近づく、というモデル。

なので、同じ哲学テーブルについた人々の間で、いかに納得のうえで合意を取り付けることが出来るかが大事であり、その方法を提供するのが現象学である、という。

これはとても納得があり、普遍の考え方を刷新してくれた。

が、

しかし、

それがわかっても、最も難しい問題が残る。

それは、
如何に人々をこの哲学のテーブルに着席させるか?

如何に人々をこの哲学のテーブルに着席させるか?

如何に人々をこの哲学のテーブルに着席させるか?

という問題。

この座席につかせるのが大変ということで、世界は混乱している。

人々が座席について、全員が互いの根拠を傾聴してコミュニケーションできれば、合意形成はできるだろうが、そんなこと3人でも難しいのに100人、1億人、では無理ではないか?

たしかに、現象学があることで「着席すれば、普遍に到達しうるという道筋がある」ということを周知させれば、「だったらやってみよう」と考える人も増えるかもしれない。

でも、「ちゃんと話し合えば合意形成できるだろう」というのは現象学などなくても誰もがわかっていることだろう。難しいのは、その「ちゃんと双方を尊重し合って話し合う体制に持ち込む」ということなのだ。

だから道筋があることを理詰めで示したとて、それでも大人数の合意形成のプロセスの難しさは大して変わらない。

人間社会をよくしようという人は、そのやり方よりも、どうやったら、議論を建設的にしてもらえるか?つまり哲学テーブルに着席してくれるか?を考えるだろうし、そっちのほうがより重要な気もする。

普遍的な認識の道筋はわかったが、それを現実的に実行する方法がより大きな課題である。

ただ、
それでも、普遍認識への可能性があることを明確に示した意義は大きいのは間違いない。

そもそも、老若男女、話せばわかりあえる、というマインドを持っている人がどれほどいるのかもわからない。なんなら、話しても結局合意形成できないと思っている人は多いだろう。

でも、竹田現象学の理屈でいえば、原理的にそれは可能だということが心から腑に落ちる。

だからこれをみんなに理解してもらえれば世界平和の道が!
という理念が生まれる。

が、
またまた、
が、

となるが、
私のように真面目にしっかり現象学を理解しようとして、腑に落ちた!やった!と思う人がどれだけいるのだろうか…

だから、
あの手この手で、人生かけて頑張って哲学しているんだろう。

であれば、もうリスペクトしかない。

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