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責任と意思とは何なのか〜資本主義社会で成功した人は生活保障にコミットすべき〜

西洋の歴史は、絶対王政から権利を市民に取り戻す歴史として描かれることが多い。生まれは選べないのだから、みんな等しく権利は与えられるべきだ、という発想だ。

現代において、表面的には大部分において平等が実現されつつあるように見えるが、本質的には未だに根本的な解決になっていない。

幼少期の経験で、その人の能力が決まってしまうとすれば、それは降ってくるものであり、所与のものだ。

であれば、「生まれ」という神秘性、偶然性を誰が負担すべきか?

真面目な話、

誰もが、「生まれ」に関わらず、自由に生きれる社会

私はそんな社会の実現に少しでも貢献したいと本気で思っている。

ロールズの「無知のヴェール」、ハイデガーの「被投性」の概念は以前に何度も説明しているが、結局、われわれが良い生を送れたり、悪い生になってしまうことの原因は、突き詰めれば、「生まれ」に行き着く。

客観的に見れば最悪な環境に生まれても、その逆境を跳ね除けて成功する人もいれば、恵まれた家庭に生まれても反社会的な道に進むものもいる。

だから、「生まれなんて関係ない。自分でその生まれの流れを断ち切って、新しい流れを作れる」ということもできる。

私の生については、そうだ!だから私が端的に頑張るしかない!ということはできる。

しかし、一般的には、やっぱりそうもいかないのではないかとも思う。

気づいたら、現代社会で勝てる能力という観点で、不利になっているい人は多い。

それは被投性であり、不可抗力だ。

社会をよくしたいと願うなら、その神秘性、偶然性を封じ込めなければならない。

完全に封じ込める方法は私にはわからない。

ただ、この資本主義社会においては、ベーシックインカムが1つの偶然性の封じ込めになるのではないかと思う。

これだけ社会の生産性が上がったのだから、本気になればできるはずだ。

私もまずは、このような目に見えて社会がよくなる、つまり主役である個人の生がよくなることに貢献したいと思っている。

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