「資本主義的な承認」と「全人格的な承認」の考察
前回、資本主義社会におけるコミュニケーションは、「資本主義的な承認」しか与えず、かつて存在したであろう「全人格的な承認」がなくなっていることを述べた。
今回は、「資本主義的な承認」と「全人格的な承認」の本質を考察してみたい。
そもそも「承認」とはなにか?
それは、私は価値があるということを他者が認めること、と定義したい。
仕事でよい成果を出したから、上司が褒めたり、接し方がよくなったり、などというのがわかりやすい承認だ。
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まず、「資本主義的な承認」において前提となっている「価値」とは、金銭的な価値である。
会社で成果を出すのも、それが売上に繋がり、会社の利益や従業員の給与に繋がるからだ。
もう少し広く言えば、この場合の「価値」とは、社会にとって役に立つ、社会の発展に寄与する、などの観点であり、最終的にはその価値の有無を判断する人間にとって有用か否かという観点だ。
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「全人格的な承認」における「価値」とは、対象となる人間の存在そのもののオリジナリティに生じるものといえる。
どういうことか。
この場合の「価値」は言語的に割り切ってその判断者にとって有用かということではなく、他との違い、ということにその本質がある。
このような承認は、次のようなことを十分理解した態度から生まれる。
・言語で割り切れないより豊かな質的な世界が我々の生にとってより重要である
・言語化できるあらゆる判断は、人間が便宜的に世界を理解するための妥協の産物である
こうした「全人格的な承認」はそれ故に、実際にリアルに対面し、目を合わせ、匂いを感じたり、触ったりするようなコミュニケーションが必要になるだろう。
より、動物的な愛着や親しみ、といえる。
つまり、それは対面し、沢山の回数接触し、長い時間をかけて行われるものであり、物理的な限界を持つ。
多くの人とコミュニケーションの関係を持っても、全人格的な承認ができるのは、実際に同じ時間を物理的空間で過ごしたことのある人に限られる。
コロナがなくとも、現代において、そのような交流をする機会はどんどん減っている。