茂木健一郎さん著『クオリアと人工意識』を読んで/現象学的に「意識」とは何なのか
導入
茂木健一郎さんの『クオリアと人工意識』 (講談社現代新書、2020/7)を読んだ。過去の著者のクオリア関係の著作も読んでいるが、今回は著者がずっと探求しているクオリアや意識についてそれが、統計的手法では解明できないこと、科学的、哲学的に世の中でどのように取り組まれているのかがいくつかの観点でまとめられている。
毎度、茂木さんの文章は知的好奇心を突っついてくれて刺激的だ。新しい知識を得ることができ有意義な内容であったが、一つの観点で自分の考えをフィードバックしたいと思う。理系的な学問に無知な素人の素朴な疑問として。
私は以前、「現象学」という哲学の分野を勉強したことがある。正直専門家といえるレベルではないが、重要なところはある程度掴んでいる。著者は本書内で何度か「現象学的」という語を使っているが、それをどういう意味で使っているかは読み取れなかった。少なくとも私が知っている現象学の理解ではない。
私が理解する「現象学」を使うと、「クオリア」や「意識」について著者と全く異なるアプローチになると思われる。
「意識」という問題に取り組むなら、「意識」を正確に定義、記述することがまず何より重要だ。そうでなければ、対象が曖昧なまま、その解明や擬似的な「意識」の開発(成功の是非が判断できない)など不可能だろう。著者によると、次のように定義は重要ではないようだ。
そもそも、意識(consciousness)とは何か。意識について議論をする際に、その「定義」をして欲しいというような要求を受けることがある。しかし、そのような問い、それに基づくやりとりは多くの場合、無益である。
クオリア」(qualia)についても同様である。
現象学の考え方
現象学は、認識問題を解決するための思考法だ。絶対的な知識、絶対に正しいことは何か、というような問題へのアプローチとして出てきたもの。現象学の父、フッサールの問題意識は「主観はいかにして客観に的中するのか」であった。
(ちなみにハイデガーは、一般的に「意識」で指示されるような「いま、ここ」を現存在daseinと呼び、このあり方をひたすら現象学的に自分の主観の中で考察し言語化するという営みを『存在と時間』でやっている)
そして、現象学の核心を一言でいうなら「われわれは主観から出ることはできない。だから客観的な認識などなく、主観ー客観という図式自体が主観の中で作られている」ということ。その前提でいうと、客観的、絶対的な認識といわれるものは、主観内である一定の条件を持って「確信」されているにすぎないということだ。
「意識」の問題でいうと、われわれは原理的には他者や動物、植物、物が自分と同じような「意識」や「クオリア」を持っているかはわからない。「そんなわけない、人はみな意識をもっている」というかもしれないが、それはわからない。原理的に突き詰めて考えるとそう考えるしかない。なぜなら、私はわたしの主観から抜け出せないのだから。
哲学的ゾンビ
そもそも、主観と客観の関係は、どのように考えられるべきだろうか。客観的に見て、二つの等価な行動が見られる場合、一方には主観的な体験が伴って、他方には主観的な体験が伴わないとしても、両者は同一だとみなされるべきだろうか?例えば、将来、知性を持ったロボットができたとする。人間そっくりの外観を持ち、言葉をしゃべり、楽しければ笑い、悲しければ涙を流すとする。そのようなロボットは、人間と客観的には区別ができない。しかし、そのロボットが一切意識的体験、主観的体験を持たないとしたら、私たちはそのようなロボットをどのような存在だと考えればいいのだろうか?
このように著者は「哲学的ゾンビ」の話題を出して、表向きは同じ動きをしているのに、意識がある(意味理解がある)ロボットと意識がない(意味理解がない)ロボットを対比させている。
現象学的アプローチ
しかし、現象学的にいうと、私以外の「人間」でさえ「意識」を持っているかは確定できない。つまり哲学的ゾンビである可能性もある。
確定はできないが現象学的にアプローチすると、
しかし、ある対象が「意識」を持っていると(私が主観の中で)断言する条件については述べることができる。
例えば、
・(意識をもっている)私と姿かたちが似ている(人間である)
・人間のように肉体を持ち、外部環境に適合しながら生きている動物
など。
しかし、動物に意識があると考える人は少ない。おそらくその線引は言語が使えるか否かのようなところになるだろう。
何が言いたいかとというと、
「意識」を持つかどうかの判定は、このようにわれわれがそう思う条件を定めて、それに該当するかという形でしか判定できない。
意識を経由しなくても、客観的な視点から見れば、意識を伴う知性と限りなく近いふるまいを再現できる可能性はある
という記述があるが、そもそも「ふるまい」しかわれわれは観察できない。表情や身体の動きだけでなく、脳の状態とか、そういうのも「ふるまい」の一種だ。著者がいう「意識を経由しているふるまい」というのは、「ふるまい」という表出から「意識を経由している」とわたしが確信を持つというフェーズが先にある。
その中身がどうなってようが、チューリングテストに合格すればいいのだ。もちろん、簡単なやり取りではわれわれの主観は「意識をもっている」と確信を持つことはないから、高度なコミュニケーションが必要だ。場合によっては人間的な肉体も必要かもしれない。
「her」という映画は、主人公がsiriのような人工的なAIに恋する物語だ。ここから言えるのは人間は、対象が機械だとわかっていても言語コミュニケーションができれば相手に感情移入してしまうということ。つまり、意識を持った対象としてコミュニケーションしていると思われる。その裏側の構造など関係ない。
それは現実の人間も同じだ。繰り返すが、我々は普段接する人間に「意識がある」かはわからない。ただその振る舞いや見た目、言語を使える、などからそういう風に感じているだけだ。
意識の解明
著者は、
「意識」の解明がライフワークとなった
と言っているが「解明」とはどのような形でなされるのだろうか。
上述のようにわれわれが「意識を持っている」と確信できるようなロボットやAIと定義すれば、それは可能性があるだろう。むしろ、今の時点でも、AIの会話ロボットが電話で典型的なやり取りだけ行う場合、今では音声合成技術も進んでいるので人間(意識を持つ)だと確信してしまうことがあるだろう。(重要なのは「確信」の程度があるだけで、それが確信を超えることはないということ)
面と向かって様々なコミュニケーションをするなら、より高度なAIやロボットが必要になる。東大の松尾先生は今後の発展段階として画像から概念を獲得することから、音声や匂いなどの五感的なマルチデータから概念を獲得し、さらに身体を持ち、経験を積むことで人間とあらゆるコミュニケーションができるAIの可能性を述べていたが、そうならばその可能性はありうる。(もちろん、それは技術的にいくつもの難題を解決する必要があるのだろうが)
…人工知能と意識の関係を論じる必要性を強く感じるようになった
…人工知能の研究、技術が依って立つ統計的な学習則については、確かに有益であり強力な道具であるけれども、それだけではクオリアの謎に迫ったり、人工意識をつくることはできないと私は考えている
「人工知能の研究」はおそらく実用的なAIを作る方向で今後も発展するだろうが、それは「クオリアの謎」とは次元が違う話だ。
著者は「クオリアの謎」をどのように解こうとしているかはわからないが、現実的な一つの道筋としては我々が「クオリアを持つ」とみなす対象の条件を突き詰め、その条件に合うようなロボットやAIを作る、ということだろう。
われわれは目の前の人間が「意識」や「クオリア」を持つかはその表出(或いは脳の状態など調べてもいいが)から総合的に判断して確信しているに過ぎない。意識の解明については、出発点をここに置かないと前に進む議論ができないと思われる。
もちろん、これは現象学という共通了解を築くため認識問題を解く方法論で取り組む場合の方法で考えただけだ。他の考え方でアプローチするという立場ももちろんありうるだろう。