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クオリア問題の現象学的解決(チューリングテスト/哲学的ゾンビ/中国語の部屋/を超えて)
本記事では、脳科学者の茂木健一郎さんが普及させた「クオリア問題」について、現象学的アプロローチで根本的に解決を試みる。
クオリア問題とは
wikiによると、クオリアとは次のようなもの。
クオリア(英: qualia〈複数形〉、quale〈単数形〉)または感覚質とは、感覚的な意識や経験のこと、意識的・主観的に感じたり経験したりする質のことであり、脳科学では「クオリアはなんらかの脳活動によって生み出されている」と考えられている。
クオリア問題とは、ようするに「どうやってクオリアが発生するのかわからない」ということだ。
おそらく、クオリアは脳活動で生み出されていると思われているが、どういう物理現象に伴って生まれるのかは不明だし、そもそも、物理的な脳に関係があるのかも決定的なことは言えない。
これについて、私が学んだ「現象学」の方法を使えば、すっきりすることを示したい。完全解決とまで言えるかわからないが、かなりすっきり視界良好になる。
結論を先に言ってしまう次のようになる。
「クオリアはどのように発生するか」という問いは、「クオリアを持つロボットをどのように作れるか」と言い直すとわかりやすい。その際に決定に的に重要になるのは、われわれはどのようなときに「対象がクオリアを持っている」という確信を持つかの条件を明確にすること。「われわれ」とは一人ではなく多数、社会の大多数の人であるほうが確信は増す。多くの人が「このロボットは意識がある」という確信を形成することができたら、クオリア問題は一定レベルで解決されたと言える。
どういうこと?当たり前のことでは?と思う人もいるかもしれない。
しかし、「確信の形成」というところで、観点が根本的に変わっていることを理解していただきたい。とてつもなく意義のある内容なので、しっかり吟味してほしい。
現象学の考え方
現象学の考え方は、シンプルだ。
何事にも動機(目的)があるので、それを理解することが重要である。
現象学の目的は、認識問題の解決である。つまり、何が正しいのか?客観的なのか?という論争に終止符を打つ。
われわれは、普段、素朴に、客観的な世界を、私という主観が経験している、と考えている。
では、絶対的な認識とは何か?
それは主観が客観を完璧に捉えたときだと言われる。
しかし、
主観は如何にして客観に的中しうるのか?
よくよく考えてみれば、われわれは自分の主観から出ることはできない。
何もかもすべての経験、体験は、私の主観内での出来事である。
そこで、現象学は、発想を転換させる。
私の主観の中で、主観ー客観図式ができあがっている、と。
どういうことか?
りんごが目の前にある。
普通の人はこれを、「客観的な世界にりんごがあり、それを私という主観が認識している」と考える。
しかし、現象学では、これを、「主観内で、赤く丸いつやつやしたものが見える、それゆえ、客観的にりんごがあるという判断をする」という順番になる。
つまり、私の閉じ込められたこの主観の中で、「クオリアの世界で、赤くつやつやした質的なものを体験すること」が、まず第一にあり、それにより、りんごが存在しているという「確信」が生まれる。
このように考える。
冷静に考えれば、こちらのほうが自然なのだ。
なぜ、最初から絶対的にりんごが存在しているといえるのか、そんなことはいえない。いくらでも疑いうる判断である。それがりんごではなく、桃かもしれないし、おもちゃかもしれないし、幻想かもしれない。
疑って疑って疑いまくっても、
最後に、もう疑ってもしょうがない(そこを根拠に普段の生を営んでいるのだから)として残る領域、これが主観領域であり、「クオリア」という語で示される領域と重なる。
哲学的ゾンビ
では、クオリア問題についてどう考えればいいか?
まず、言えることは、
(自分以外の)他者は(さらにはいかなる対象も)クオリアを持っているかわからない。
太陽の光を見て、眩しそうに目を閉じようとする友達の太郎くんは、ただ機械的に光に反応しているだけで、眩しいという感覚を持っているかはわからない。
先の、主観が客観に的中する方法がないように、彼の眩しさのクオリアは確かめようがない。
他者に、「クオリアあるよね?質的な体験しているよね?意識あるよね?」などと聞いて、「ある」と答えたとしても、それもクオリアがあることの根拠にはならない。
哲学的な議論が好きな人は、「あーそれ哲学的ゾンビね」と言う反応をする。そう、哲学的ゾンビとは、自分以外は意識を持っていない可能性があることを示し、「うわー、やべー」というやり取り。
が、哲学的ゾンビという概念は、知的好奇心をくすぐる一つの思考実験であること以上に、その先がない。
その先を考えよう。
哲学的ゾンビを超えて
では、これを超えて何が言えるか?
たしかに、私は他者がクオリアを持っているか決定できない。
しかし、
「自分以外のみんなはクオリアを持たないなんて、ありえない」という感覚も事実だ。
そこで、問いの転換が必要だ。
どういう条件があれば、私という主観は「他者がクオリアを持っている」と確信するのだろうか?
と。
それは、例えば、
・自分と同じような姿かたちをしている人間であること、
・言語を使ってコミュニケーションすること、
・表情があること、
・会話が通じていること…などなど
こういう経験の積み重ねで、自分との類似で、勝手に確信を築き上げている。
一方で、人によっては猫や犬なども意識をもった存在として扱う場合もあるだろう。そういう人は、身体の類似とみなす範囲が広かったり、言語以外のコミュニケーションを察する経験などからこうした確信を形成したのであろう。
つまり、一般的に言われるクオリアは、厳密に考えれば、そもそも自分の主観にしか根拠のないものであり、他者(人間)もクオリアを持っているかは根源的にはわからず、それは確信でしかない。
クオリアはどうやったら生じるか
そこで、クオリアはどうやったら生じるのか?
という問いは次のような問いに変わった。
問A:なぜ私は「他者がクオリアを持っている」と確信するのか?
と。
そして、
問B:どうやってクオリアが発生する脳(機械、プログラム)を作れるか?
という多くの科学者を悩ませる問いも、根本的に変わってくる。
問Bの解き方は、問Aの条件を突き詰めて、その答えをもとに導くことができる。
他者がクオリアを持つと思う条件の本質を深く考察し、それを再現するのである。
つまり、問Bは次のように変わる。
問C:どうやったらある人間(主観)に「この対象(ロボットなりプログラム)は意識がある」と確信させることができるか?
チューリングテスト
これをいうと、また「あーチューリングテストのことね」と本質を見ていない反応が出てくる。
チューリングテストとは次のようなものだ。wikiより。
アラン・チューリングが1950年に『Computing Machinery and Intelligence』の中で書いたもので、以下のように行われる。人間の判定者が、一人の(別の)人間と一機の機械に対して通常の言語での会話を行う。このとき人間も機械も人間らしく見えるように対応するのである。これらの参加者はそれぞれ隔離されている。判定者は、機械の言葉を音声に変換する能力に左右されることなく、その知性を判定するために、会話はたとえばキーボードとディスプレイのみといった、文字のみでの交信に制限しておく 。判定者が、機械と人間との確実な区別ができなかった場合、この機械はテストに合格したことになる。このテストについては、もっともだと納得する人もいれば、そうでない人もいた。
つまり、チューリングテストのように、例えば、LINEチャットなどで私が他者とやり取りして、スムーズに会話できれば、私は相手を「クオリアを持つ」と判断するかもしれない。
とりあえず、続きを見る。
中国語の部屋
ここで、サールという哲学者は「中国語の部屋」という思考実験を持ち出して、次のような批判をした。
サールは、単に理解していない記号を処理しているだけでもソフトはチューリングテストに合格できると述べた。理解していないのならば、人間がやっているのと同じ意味で「思考」しているとはいえないということだ。したがって、チューリングのもともとの提案とは逆に、チューリングテストは機械が思考できるということを証明するものではないとサールは結論している。
この批判は、非常に表面的である。
ここで批判している「思考しているとはいえない」というのはつまり「クオリアを持っているとはいえない」ということだ。
「哲学的ゾンビ」のところで、すでに述べたが、われわれは原理的に他者がクオリアを持っているかわからない。
この批判は、チューリングテストよりも後退してしまっている。
むしろ、「中国語の部屋」よりも、「チューリングテスト」の方が本質をついている。
どういうことか?
「チューリングテスト」では、チャットをして私が「相手にクオリアがある」と確信を持つか否かがポイントである、という本質をついている。
ただ、これが、LINEのようなチャットに限定しているから、話の本質がみえづらくなっている。
以下、詳しく説明する。
次のような場面Aと場面Bを考えてみてほしい。
場面A
私は、チューリングテストをして、LINEチャットで「太郎くん」という対象と10分コミュニケーションをして、太郎くんはロボットやAIではなく、人間だと確信した。つまり、太郎くんがクオリアを持っていると確信した(1)。
しかし、15分を過ぎた頃、太郎くんがLINEチャットで言っていることがおかしくなり、私は彼をロボットだと思うようになった(2)。
しかし、その後、私は直接太郎くんに会いにいったら、人間の身体をもっているのを見た。皮膚や髪の毛は人間そのものだ。ここで私は「やっぱり太郎くんはクオリアを持った人間だ」と思うようになった(3)。
しかし、その人間の姿をした「太郎くん」の口から、おかしな発言を沢山、直接聞いたら、やはり「クオリアを持っている」人間だが、病気なのか?精神的におかしい人間なのではないか?と思うようになった(4)。
場面B
私の20年来の友人である「花子さん」。彼女とは、中学からずっと連絡をとっている。
もちろん、私は普段そんなことを考えることは全くないが、彼女を「クオリアを持っている」存在と前提している(①)。
しかし、ある日、彼女と会ったとき、彼女顔の半分がむき出しの機械のようになっており、「自分はロボットだった」と打ち明けられる。(そんな技術があるのか、など驚きがあるだろうが、それはおいておいて)
そして、「クオリアを持っている」という確信は、揺らいでいく(②)。
その後、花子さんの全身が機械でできていることを全て確認した。
しかし、それでもまだ、昔の一緒に遊んだ記憶を共有し語ることのできる花子さんは、「クオリアを持っている」という感覚は消えない(③)。いくら身体が機械でできていても、だ。
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さて、
この話でわかるのは、最終的に「対象がクオリアを持っているか否か」を決めるのは、その判断を行う主観でしかない、ということ。
場面Aの(1)〜(4)、場面Bの①〜③のように、主観はその経験により確信の判断を変えていく。
世間で言われる「クオリアを持つ」ということ
映画トゥルーマン・ショーの主人公は、ずっと自然に世界を生きていると確信していたが、それは作られたセットであった。でも、それは彼にとっては、ずっと本物の世界だったのだ。
なので、クオリアを持つロボットを作るなら、一人より二人、二人より三人と、このロボットはクオリアを持っていると確信する人々を増やしていくことでそれが実現する。
全員が信じた状態が、今われわれが期待する「クオリアを持ったロボットを作る」の成功状態となる。
そんなことわかっている、知っていた、と思うだろうか?
この、みんながある意味「騙される(そう確信する)」というのが、「客観的」と言われることの条件なのである。
これが現象学の肝である。
つまり、現代において「科学的」といわれるものや絶対的と思われている数学なども、大多数の人が「正しい」と確信しているだけで、あくまで「確信」にとどまっている。
と考えることが、現象学的なアプロローチであり、最も誠実な物事の見方である。
結論
クオリア問題、つまり「どうやってクオリアが発生するのかわからない」という問題への現象学的アプロローチを紹介した。
われわれは、そもそも、原理的に、自分以外の対象(他者や動物を含む)がクオリアを持っているかを知ることができない。
ある条件の下で、ある対象は「クオリアを持っている」と確信するだけである。
クオリアを持つロボットを作りたければ、人間社会の大多数が「このロボットはクオリアを持っている」と確信させることを目標にすればいい。
なので、工学的に、多くの人間の感受性的に「クオリアを持つ」と信じられるようなものを作れれば、その構造は別に人間の脳のようなものであっても、そうでなくてもなんでもいい。
結論だけを聞くと当たり前に思うかもしれないが、「クオリアという実体を持つロボットを作る」と、「多くの人がクオリアを持っていると確信するロボットを作る」は、根本的な思想の転回がある。