なぜ自分の言葉でゼロから哲学できないのか〜ハイデガー本を読んで思ったこと
この1年くらいで出版されたハイデガーに関する日本人研究者の本を数冊読んだ。
なんでこんなにありがたがって、何かしらを汲み取ろうとするのだろうか?
もっと自分の言葉で、自分の経験から概念を定義し、共感を呼ぶような哲学ができないのか?と率直に思う。
議論の文脈を提示するために、ハイデガー、カント、アリストテレス、プラトンとかを出すのはいいが、もう、その解釈を主題にどうこう言わなくてよくないか?
自分でイシューを見つけて、言葉にしなさいよ、日本の哲学研究者といわれる人たち。
本質的な仕事を期待したい。
本質的とは、我々の人生にとって影響が大きいイシューを扱うということ。
我々は、客観的な事実がどうあるかというようなことよりも、日々、喜怒哀楽に満ちた感情的な主観を生きている。その領域で、重要度の高い話題を扱いましょうよ、ということ。
そういう哲学学の研究者たちが扱う西洋の哲学者はそういう本質的な仕事をしているのは間違いない。
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