「学習者」と「教え手」の二項対立から、「学習者&教え手」と「世界」という図式へ
私は何を教わる(教える)にも、「学習者」と「教え手」の二項対立が好きではない。
英語や中国語の先生、講師、コーチでも、テニスやゴルフ、野球などのコーチでも何でもいいが、一般的に、「学習者」と「教え手」の二項対立で「学び」の過程が設定されている。
なぜこれがよくないか?
こうした対立的な関係性だと、その「教え手」の能力が成長のキャップになってしまうからだ。
われわれは、ある一個人の世界観や価値観のような狭いものではなく、より広いすべてを包括するカオスで無規定な「世界」に開かれた存在。その「世界」の中では、事実上、なんでもあり。
例えば、中国語学習にしても、凄い先生や達人的な人はいるが、中国語の学びの本質はそこにはない。なんなら往々にしてとても狭い見識しかもっていないことすらある。
もちろん、「その人個人がそのように思う」ということは興味深く有益であるが、それが中国語などその対象領域のごく限られた側面であることを理解したい。
それよりも、
実際に無限の可能性を秘めた「世界」、つまり実際の中国語の使用のカオスの中で自分で何かを見出したい。つまり、中国人が話していること、旅行で中国人の言動を見てみる、話しかけてみる、本でも、youtube、bilibili、douyinなど動画でも何でもいい。言語行為として中国語を使う。
教え手は、カオスである「世界」に対立する(学習者と同じ)側に経ち、どう「世界」と向き合うかという視点でサポートするべき。
中国語とはこういうものだ、という押しつけはやめ、できるだけ多く「世界」に触れさせ、理解可能なフィードバックを得られるようなサポートをしたい。
勉強のおもしろさなども、言語化して教えてもらうことではない。
そうではなく、「世界」から、自らそのおもしろさに気づいてもらうことが重要なのだ。
実際問題、「教え手」のレベルが高まるほど、些細なトリビアルなことを気にしなくなるだろう。
そのためには、早く世界に出る必要がある。
でも、いきなり出ても世界を理解できない。
そのために必要なところまでは最短で案内する。
その際には、「学習者&教え手」と「世界」という図式を常に念頭においておきたい。