見出し画像

AI教育は、初学者がいきなり最高峰に挑む機会を奪うのか?

脳科学者芸人の茂木健一郎さんが一つ興味深い問題提起をしていた。

それは、初学者がいきなり最高峰に挑む「素読の精神」である。

「この過保護的な学びが蔓延する現代において、

初心者でもいきなり(難しいと言われている)本格的なものに取り込むことが重要だ」という主張である。

ここで例に挙げられているのは、

ドイツ語なら、初日にアー, ベー, ツェー, デー, エーから始めた翌日にはニーチェを読むという狂気。

英語なら、this is a penなどやらずに、いきなりウィリアム・ジェームズやシェイクスピアを読む。

茂木さんの趣旨は、子供や初学者のポテンシャルを過小評価して、簡単なものばかり与えることで、彼らの成長機会を奪う可能性がある、ということ。

私自身もこれに非常に共感する。

その理由は、成長機会を奪うということもあるが、それよりも、もっと単純に、学習者にとって、誰かにコントロールされたシラバス的な学習というのは、つまらないからだ。

そもそも、一般的に言われる「本格的」「難しい」というのは、シラバス(カリキュラム)などの順序で後ろの方に位置づけられているものであるというだけである。それを理解するためには、A、B、C…と知識やできることを積み上げていかないと駄目、などという決め事がある。

これは、おそらく、学生の集団を確率を高めて学力向上させるときに都合がいい、ということでここまで普及してしまったやり方なのではないか。

学習者というのは、やはり、本格的なものにワクワクするものだ。

中国語を学んでいるなら、いくら要点が整理されていたり、気の利いた例文が豊富にあるとか、よいことがあっても、所詮教科書は教科書だ。

こんな「学び」の体験をコントロールされたものにはワクワクしない。

やっぱり、中国語の小説や、ドラマ、そこまでいかなくても長文や一定の長さのある音声など、そういう作られていない生の中国語に対して、興奮を覚える。これが聞けるようになれたら、これくらい話せたら、とあれこれ妄想するだろう。

**

これは私が学んでいた哲学の領域でも経験した。

ハイデガーやカントを理解したいなら、解説書ばかり読んでステップを踏んでいてもいつになっても哲学の力は身につかない。

カントは◯◯と言いました、ヘーゲルは◯◯という概念を提起しました、など哲学学のような知識は増えるが、それは自分で考える哲学ではない。

哲学力を伸ばしたいなら、いきなり原文(日本語でいい)にあたるべきだ。私はそのように指導していただいた。

しかし、一人で原文は無理だ。だから、その原文1行1行を丁寧に解説してくれる人が必要で、それにはかなりレベルの高い先生が必要だし、時間もかかってしまう。

そういう場合は、まずは、丁寧な解説がある本を手引にするのがいい。幸いなことに、カントやヘーゲル、フッサールなどは、竹田青嗣さんがこのような完全解読本を出している。

**

簡単なところから順番に教えるというのは、

安心しながら教えることができるという、教えての自分勝手な理由によるものだろう。

一方で、誰に対してでも「素読の精神」がフィットするわけでも

その領域に人生を賭けるというレベルの人なら「いきなり最高峰」でも粘りつづけなにか掴むだろうが、大抵の人はすぐ挫折する。

私は今、中国語を教えているが、学習の流れについては、こうした「素読の精神」を大いに取り入れている。

勉強としてコントロールされた学習を最低限にとどめて、いきなり最高峰とは言わないまでも、実践を中心に着実に成長できる学びの体験を作っている。

ここは、なかなか難しいところだが、初学者やある分野を学ぼうとしている人にとっては、例外なく、最高峰にはワクワクする、という前提は常に意識しておきたい。(そして、往々にして、初学者はそれを自分ではいえない)

いいなと思ったら応援しよう!