自由意志の論争を打ち破るキリスト教予定説
全ては物理現象であり、自由意志などないという主張は昔からある。
脳内のメカニズムが明らかになるほどそういう意見を耳にすることが多くなる。
しかし、結局、クオリアや意識がどう生まれるのか、何なのかについて原理的に全くわかっていない以上、その議論は無駄だ。
最終的には、われわれ一人ひとりが意識の中で、「どう思うか」「何に確信を持つか」が最終的な根拠になる。(デカルト、フッサールなどの議論のポイントはここにある)
自分の「生まれ」を基に限界を決めて生きる人もいれば、そうした所与からの離脱の可能性に賭けて、挑戦し続ける者ものいる。
ここで1つ「予定説」という破壊的な思想について紹介したい。
学生時代に衝撃を受けた著書の1冊を挙げるなら小室直樹『憲法原論』である。(昔の書名は『痛快!憲法学』)
この本は、西洋的な憲法の意義が歴史的にどのように生まれてきたかがよくわかる。(そりゃ日本には根付かないな、というのもわかる)
本書で私が最も印象に残っているのがキリスト教の予定説だ。
予定説の誕生で、躍起になって努力する人間が増えた。
これが資本主義の発展に寄与したというのはマックス・ヴェーバーの有名なプロ倫である。
予定説とは何か?
それは、人は生まれつきその運命が神により決められていると考える。
つまり、「自由意志」は存在しない、というようなものだ。
普通の考えなら、決まっているなら、もういいや、楽なことばかりやろう、と怠けてしまうのが人間だと思う。
しかし、
予定説は違う。
いくら現状が悲惨であっても、「これがおれの運命だ、頑張ってもしょうがない」と諦めることなく、逆に、こんな現状でも「自分は選ばれた側の人間だ!」と信じ込むために努力をする、と信じ込み、行動するのだ。
自由意志がないと考えた上で、それでも努力する論理が登場した。
これは自分にとって青天の霹靂であった。
西洋にはこうした考え方があることを理解しておこう。