【現象学と陽明学】感情や思考も行動の一部であるという「知行合一」の教え
陽明学の解説本の決定版『真説・陽明学入門』によると陽明学とは、「心の陶冶する、鍛えることの大切さを主張した教え」であり、「万物一体の考え方を理解し、心の中の葛藤をなくし、不動心を確立する教え」とされている。
平たくいえば、陽明学とは「心を強くする教え」ということだろう。
今回は私が陽明学を少しかじった上で、最も勉強になった考え方をシェアしたい。
正直な話、解説本を数冊、さらに陽明学のバイブルである『伝習録※』を読んだが、私の低い文化レベルではここくらいしか感心するところがなかった。(※弟子たちが王陽明の手紙や言行などをまとめた3巻で構成された書物)
**
それは、陽明学の3大重要概念の1つ「知行合一」に関するものだ。
『伝習録※』の下巻に次のような知行合一の記述がある。
知行合一について質問した。先生曰く、「このことは、まず私の主張の本当のねらいをよく理解してもらわなければなりません。いまの人の学問では、知と行を分けて二つのものとします。ですから一念が動いた場合、たとえそ
れが不善であっても、実際の行動の上に現わさなければ罪悪でないとして、あえてこれを禁止しようとしないことがあります。私がいま、知行合一を主張するのは、このような考え方を否定して、人に一念が動いたとき、それはすなわち行なったことであることを、よく知ってほしいからなのです。念慮(思い)が動いたときに不善があれば、この不善の念を克服させて、必ず徹底的にその一念の不善が胸中に潜伏して、残ることのないようにさせることなのです。これが、私の主張の根本趣旨なのです」
知行合一というと、一般的には、「知っているだけで行わないのは、知っていることにならない」という風に理解され、実践を促す思想に思われがちだが、これは本質ではない。
知行合一とは、知と行という別々のものを合わせよう、ということではなく、それらは「もともと分けられない」と主張している。
要点を言うなら、身体や口の動きを伴う外的な「行動」だけでなく、内的な認識、感情や思考などの「知」も、行動とみなされるということだ。
例えば、お金に困っている人が、人気のないスーパーの片隅で、パンを盗んでしまおうかと考える。思うだけなら何を思っても問題ない、と考えるのは誤りで、それは法律的な次元では許されるが、紛れもない行動であり、実際に盗むという行動の内に含まれている。
このような思考すらも、生じないように訓練するのが陽明学の教えだ。「盗んでしまおうか」という思惑が出来てきた瞬間に、それを消し去り、消滅させる。こうした習慣をつければ、今後はそのような思念すらも生じることのないよう心が陶冶される。
では、どこまでが「行動」なのか?どこまでを制御しようとすればいいのか?
現象学的に自らの主観を反省すると、そこには、降ってくる「所与」と、自らの意思で制御できる領域があるのがわかる。例えば、視覚や嗅覚などの情報は与えられるもので、それを自分が何かしら働きかけることで変えることはできない。
一方で、視界の左にあるコップから、右側の椅子へ焦点を変えたり、「お腹が空いた」ことを、声に出すか、黙っているか、なども自分で決めることができる。
意識の流れのうち、自らの意思で動かせるもの全て。この領域は全て「行動」であり、修行で良い習慣をつけるべきである、ということだ。
余談だが、陽明学の3大重要概念「知行合一」「心即理」「致良知」であるが、「心即理」という重要概念の教えは、「自分の心は正しいことを完全に理解している」というものだ。先の例でいえば、「盗もうか」というちょっとした思惑すらも、だめなことだという認識は自分の内に見出すことができる。これが、つまり心が既に理であるということなのだろう。
また、「致良知」というのは、その善を知っている心(良知)に従って行動(致す)することである。つまり、「盗んじゃうか」という観念が浮かび上がったらそれを消し去ろうという行動が、良知を致すということなのだ。
不善として悪い思惑が生じれば、それは自分が意図的に取ろうとしている行動であると認識し(知行合一)、そんなことを思っていてはダメだという心の声を聞き(心即理)、その思惑を消し去り善の行動を取る(致良知)。こういう訓練を繰り返し、心を鍛える、というのが陽明学の要諦である。
大変勉強になりました。
めんどくさいと思ったあなた、心の声を聞いて、適切な行動を取りましょう。