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”暴力的な支配は長続きしない”読書note107「スピノザ(人間の自由の哲学)」吉田量彦著
スピノザは17世紀を代表する哲学者で「迫害を受けてアムステルダムにやってきたポルトガル系ユダヤ人の二世として生まれ育ち、やがてそのユダヤ人の共同体からも【破門】を受けて放逐されます。ユダヤ教からはじかれて、ではキリスト教に改宗するかと思えばしません。彼はあらゆる宗教から慎重に距離を取って生きるという、ヨーロッパ社会の当時の一般常識からすると考えられないほど危険で珍しい生き方を、しかも自ら進んで選び取った。」人で、哲学者としての評価は後世のもので、当時は破門者として有名だったようです。
スピノザの「自由の哲学」に関わる言葉や行動を拾ってみたい。
本書は、哲学する自由を認めても道徳心や国の平和は損なわれないどころではなく、むしろ自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてしまう、ということを示したさまざまな論考からできている。
自然権をふまえない社会規範はいくら立てても無効であり、もしそうした規範を無理やり立てる人がいたら、その人は「無茶苦茶あほ」である、というのがスピノザの政治哲学の核心となる主張です。(中略)いくら強制されてもそう簡単に手放したり譲ったりできない部分。これこそあの、「神学・政治論」全体を通してスピノザが強調してやまなかった「哲学する自由」です。
哲学する自由を削ってしまえば人間の自然権が成り立たなくなる以上、この自由をふみにじろうとする社会とは、究極的にはそこで暮らす誰にとっても、人間としてのあり方の根幹を揺るがされない社会ということになります。
「自らの存在に固執しようとする」人間の力=コナートゥスは、(中略)外からどんなに強制されても、それを何らかの形で納得できないと従えない、そういう精神のつくりになっているのです。
理性が言うほど当てにできないことは百も承知で、それでも理性に突破口を求めるしかない。人間が置かれているこうした状況を、いわば逃げ場のなさを、希望も絶望も差し挟むことなく、ただひたすらにそういうものとして理解しようとしていた17世紀人は、スピノザの他に恐らくいなかったからです。
図書館で何げに手に取った「スピノザ」、そしてそこで触れた「人間の自由の哲学」であるが、今の世界情勢の事を思わずには読めなかった。「暴力をもって人を強制する社会は長続きしない」というスピノザの声をウクライナの人々の国家と民族を守ろうとする言葉と行動と重ねて力強く聞くと同時に、「理性が言うほど当てにできないことは百も承知で、それでも理性に突破口を求めるしかない」という現実の厳しさも肌で感じてしまう。