”なるべくしてなった”読書note97「ヒトの壁」養老孟司著
部分を見れば全体はボケる
ウィルスを百万倍の拡大で見ることはできる。それをやると、じつは世界が百万倍になってしまう。ウィルスの人体への影響をその精確さで見ようとするなら、それが取り付く細胞も百万倍の桁で見なければならない。その意味でなにかが精確にわかるということは、「関連する」事象がその分だけボケることを意味する。
構造と機能
解剖学は構造を扱う。機能を扱うのは生理学である。簡単にいえば、構造は仕組み、機能は働き、だということになる。(中略)カブトムシの角をいくら分析しても、角の機能的な意味は不明である。
意識がすべてではない
つまり、意識がすべてではない。日常というものがある。体があってこその意識だと考える。(中略)統計数字が「事実」になってしまうことである。数字は明らかに抽象であって、自分の目で確認した「事実」ではない。つまり意識の変形である。
感覚系は理解
自然淘汰説では、進化は偶然の結果で生じたというのが最終的な説明となる。(中略)自然淘汰説に対して、どうしてそうなるんだという疑問が絶えず生じるのは、感覚系が異議を申し立てるからである。感覚系は理解だから、理路整然でなくてはならず、「偶然そうなった」では理解の意味がない。感覚系も身の内で、それをシカトされれば誰でも怒る。
死は二人称でしかない
死には「一人称」(私)、「二人称」(あなた、君)、「三人称」(彼、彼女)がある。一人称は「私の死」。死んだ時には「私」はいない。従ってそれは現実には無いのと同じことである。三人称は「誰かの死」。どこか遠いところで誰かが死んだとしても、ヒトの感情は動かない。この死もまた存在していないに等しい。二人称の死は知っている人の死である。身内であろうが、嫌いなやつであろうが、そういう人の死は確実にヒトに影響を与える。逆にいえば、この二人称の死以外はヒトにとっては無いに等しい。
会議が長くて何がいけないのか
ユダヤ人は全員一致の場合はその決議を再確認するそうだ。なぜかって、全員一致の結論はむしろ危ないから。全員一致を必ずしも危険視する必要はないにしても、そのくらい客観的に議論する姿勢を持った方が話は進むのではないか。
あいかわらずの養老節を聞いた感、である。今の潮流や風潮に水をかけてくれる養老さんの話には、いつもドキッとさせられる。
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