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小説『暁の帝〜推古天皇編〜』第一章第二節(18000字)
木々が枯れ、宮中に寒さが訪れはじめたある秋の日、蘇我家の中で大きな世代交代が行われた。当主である蘇我稲目が病に倒れ、大臣(おおおみ)の職は息子の馬子が代行することになったのだ。
稲目の多忙ぶりは宮中一とも言われており、60歳を越えて尚、精力的に執務をこなしていたが、ある日大量の血を吐いて意識を失った。一命はとりとめたものの予断は許されず、執務復帰は絶望的だったため、急遽長男の馬子が大臣の職を代行することになったが、これは既定路線でもあった。
大臣というのは、大王の臣下の中で最も位が高い役職の一つで、政治全般の運営に責任を持つ。馬子は18歳であったが、以前より父稲目を補佐しており、既に頭角を表していた。いつかは馬子が大臣になるというのは誰もが知るところであり、また対抗する豪族にとっては、稲目以上に野心的な馬子の方が厄介な存在であった。
馬子は大臣代行の職に着くと、尋常ではない行動力を見せつける。特に兼ねてから外交に力を入れていた馬子は、父が結論を出せなかった事柄について、矢継ぎ早に決定をしていき、周囲を驚かせた。中でも馬子は外交に関しては積極的だった。
当時、大陸では高句麗、百済、新羅が熾烈な争いを繰り広げていて、外交は重要なテーマであった。倭国はかつて任那という国を支援し、そこを足がかりに大陸へ勢力を伸ばそうとしていたが、八年前に任那は新羅によって滅ぼされてしまう。その新羅がいつ倭国に攻め込んできてもおかしくない状態であり、外交的にいかに振る舞うかは最重要案件であった。
欽明大王は任那復興を悲願として掲げており、新羅と対抗する百済にその話を持ちかけていたが、なかなかその実現は困難な状況だった。
欽明大王に厚く信頼されていた蘇我稲目でさえ、任那復興は厳しいと感じ、百済との友好関係を深めるべきだと考えていた。任那復興を推し進めることは新羅、百済双方からの反感を買い、自国の安全を脅かす可能性があると分かっていたからだ。それゆえ、最低限の外交を行い、それ以上には深入りしないという状態が続いていた。
しかし、馬子はこの機会に、独断で百済との関係性を強める動きをした。百済との関係を強めて、新羅を牽制させる。任那復興を百済に要求しないことで、百済を支援するという姿勢を明確にする。これが馬子の思う最善の策だったのだ。
独断で大陸からの要人を招く日取りまで決めてしまう馬子を見て、周囲はいよいよ馬子の時代がやってくる、とささやいたが、決して好意的なものばかりではなかった。
そんな馬子の動きに最も反発したのが物部尾輿(もののべ おこし)である。物部家は、大臣と並ぶもう一つの要職「大連(おおむらじ)」に、一族の長である物部尾輿がついていた。大連は軍事や神事を担当しており、蘇我家の意向には反対していた。蘇我家と物部家は当時の豪族の双璧であり、大臣と大連も本来はどちらが上ということはない。
ただし、現状では蘇我家が上回っており、物部家の存在感は以前より小さくなっていた。欽明大王には六人の妻がいたが、そのうち二人が蘇我家から嫁いでいることもそれを象徴していた。
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