小説『暁の帝〜推古天皇編〜』第一章第三節(9500字)
木々が枯れ、宮中に寒さが訪れはじめたある秋の日、蘇我家の中で大きな世代交代が行われた。当主である蘇我稲目が病に倒れ、大臣(おおおみ)の職は息子の馬子が代行することになったのだ。
稲目の多忙ぶりは宮中一とも言われており、60歳を越えて尚、精力的に執務をこなしていたが、ある日大量の血を吐いて意識を失った。一命はとりとめたものの予断は許されず、執務復帰は絶望的だったため、急遽長男の馬子が大臣の職を代行することになった。これは既定路線でもあった。
大臣というのは、大王の臣下の中で最も位が高い役職の一つで、政治全般の運営に責任を持つ。馬子はまだ十八歳ではあるものの、父稲目を補佐する中で、既に頭角を表していた。いつかは馬子が大臣になるというのは既定路線であったが、対抗する豪族にとっては、稲目以上に野心的な馬子の方が厄介な存在であった。
馬子は大臣代行の職に着くと、尋常ではない行動力を見せつける。特に兼ねてから外交に力を入れていた馬子は、父が結論を出せなかった事柄について、矢継ぎ早に決定をしていき、周囲を驚かせた。中でも馬子は外交に関しては誰よりも強い自負があった。
当時、大陸では高句麗、百済、新羅が熾烈な争いを繰り広げていて、外交は重要なテーマであった。倭国はかつて任那という国を支援し、そこを足がかりに大陸へ勢力を伸ばそうとしていたが、八年前に任那は新羅によって滅ぼされてしまう。その新羅がいつ倭国に攻め込んできてもおかしくない状態であり、どのように対処するべきかは最重要課題と言えた。
欽明大王は任那復興を悲願として掲げており、新羅と対抗する百済にその話を持ちかけていたが、なかなかその実現は困難な状況だった。
欽明大王に厚く信頼されていた蘇我稲目でさえ、任那復興は厳しいと感じていた。百済は倭国と関係の深い国ではあったが、任那復興を推し進めることは新羅、百済双方からの反感を買い、自国の安全を脅かす可能性があると分かっていたからだ。
馬子も、百済との関係を強め、新羅や高句麗に対しての抑止力を高めることは必須と考えていたが、兵を送ることには消極的であった。欽明大王は兵を送ることも辞さずと稲目に働きかけていたが、馬子は外交的に解決するべきだと考えていた。
そんな馬子の動きに最も反発したのが物部尾輿(もののべ おこし)である。大臣と並ぶもう一つの要職「大連(おおむらじ)」についている有力者である。現在では蘇我家が権勢を振るっていたが、それに唯一対抗できる存在が物部家である。物部家は軍事や神事を担当しており、古くからの有力家。新興勢力とも言える蘇我家には対抗意識が強い。馬子が軍事ではなく外交に力を入れることは対外的な主導権を握られるということでもあり、見過ごすわけにはいかない。
また同時に蘇我家が大陸から仏教の伝来に積極的なことも神事を担当する物部家としては容認できるものではなかった。
大臣、大連という役職も、本来はどちらが上ということはないが、現状では蘇我家の勢い上回っており、物部家の存在感は以前より小さくなっていた。欽明大王には六人の妻がいたが、そのうち二人が蘇我家から嫁いでいることもそれを象徴していた。
額田部は親族の中で一族の長である稲目だけは慕っていた。額田部にとっては祖父にあたる。母の堅塩媛は「蘇我家のために」というのが口癖だったが、蘇我家の長である稲目はそのようなことを言わない。額田部はそんな稲目を尊敬していたのだ。
また稲目が父に代わる存在であったことも大きい。額田部にとって、父である欽明大王は、いつも甘えられる存在ではなかった。六人の妻、二十人以上の子供がいるから当然のことではある。大勢の子供の中でも額田部は特別可愛がられていると言われていたし、本人にもその自覚はあったが、それでも十分ではなかった。代わりに祖父である稲目が父親のように相手をしてくれたのだ。
そんな稲目が倒れたと聞き、額田部はすぐに稲目の元へ見舞いに訪れた。
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