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天国の父から学び続けること
父を殺したのは、私だ。
いつも帰りの遅い父が、珍しく定時上がりで帰ってきた。
「調子が悪い。風邪引いたかも」
そう最期に言って卵かけ御飯だけを食べて、21時には寝室に入った(死ぬ間際の人は卵かけ御飯を食べたくなる、なんて話を聞いたことがある。確かに)その9時間後、父は死んでいた。それは突然のことのようだが、私は、目を冷たく見開いた父を見たとき「あぁ、マジかよ。やっぱりそうだったのか」と口に出た。
あの声は今でも耳から離れない。父が寝室に入った2時間後、23時くらいに、私は父の声を聞いた。うめき声だろうか、 父はいつもイビキをかいていたし、酔うと寝言を言う人だった。私は父の最期の声を「いつもの寝言だろう」で処理してしまった。いま思えば、あの日は酔っていなかったのに。
父は、寝床から出て、寝室のドアの真下で死んでいた。助けてほしかったのかもしれない。私に助けを求めていたのかもしれない。あの声を聞いたとき、私が父の部屋に入る勇気があれば、父を救えたのかもしれない。「これは普通じゃない」とどこかで気づいていたのに、ドアノブを握ったのに、私はそのドアを開ける勇気がなかった。苦しむ父を、私ごときが救えるだろうかと。
死なせてやったほうがいいのではと、どこかで気づいたのかもしれない。
父の死後に知った。妻を失った父は、自分たちの生まれ故郷であり、妻が眠る岡山に帰りたいと言っていたそう。岡山で仕事があるのか、ふたりの子どもはどうするのだと親族にたしなめられ、思いとどまったという。父の葬儀のあと、伯母から「お前のお父さんはお前を20歳までは面倒見ると言っていた」と聞いた。確かに、私が20歳になった2週間後に父は死んだ。
母は、当時は助かる見込みの極めて少ない病を患い、ふたりの子どもと過ごす短い時間を満足に生きるために手術を拒否したそう。ただ、教育に熱心だった母は、最期に兄の初めての通知表を見たいと願ったという。確かに、兄が夏休みに入って1週間後に母は死んだ。
なぜ、私は岡山に居るのか。なぜ、ここに来なければならないのか。
なぜ、あなた達は死んだのか。
いつもの夏、それを墓前で問いかけても、答えは聞こえなかった。
私はいつまで、生きなければならないのだろうか。
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父が死んでから23年が経った。あの経験から、救命講習をうけた。AEDの使い方も学んだ。
今の私の仕事場であるモータースポーツの現場では、事故や怪我が起きる。お客様が事故や怪我をしてほしくない。そのために工夫をし続ける。
父はもう救えないが、その失敗から、私は学び続ける。