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狭き門(ジイド著 淀野隆三訳)

 この作品のテーマは「プラトニックな両思い」である。
 それ不可能だろ、とツッコミ入れたくなる。両思いならヤりますよね、普通。だから私は最初、アリサのモデルは男性じゃないかと勘ぐってた。ジェロームとアリサが同性同士ならありうるかも、なんてね。ジイドはそれを隠すために、無理矢理アリサを異性に設定したもんだから、話が不自然になったんじゃないかって疑ったんだ。
 これはまあゲスの勘ぐりだった。アリサのモデルはジイドの従姉妹のマドレーヌとされてるからね。
 だけどこの場合、興味があるのは、なぜ「プラトニックな両思い」が成立するのかってことだ。
 参考までに他の批評も読んでみた。
 この小説はジェロームの視点で描かれているから、ジェロームの目でみたアリサという見方ができる。そういう見方だと、「プラトニックな両思い」になった理由は、アリサとジェロームの宗教体験が原因だということになる。これについては色んな人が語っている。アリサのモデルがいるぐらいだから、ジェロームはジイドがモデルだとみていいだろう。だけど私は作家という人種は基本的に宗教なんかには影響されないと思っている。作家にとって宗教は素材であり、芸の肥やしなんだ。
 それに、これが本当に一人称小説なのか?という疑問がある。
 なぜならジイドはジェロームを「独白的報告者」として描写しているからだ。
 で、私はジェロームが独白してることじゃなくて、独白していないことが気になるんだな。
 アリサの妹のジュリエットはジェロームに片思いするんだけど、結局、身を引いて他家に嫁ぐことになる。で、ジェロームがジュリエットも結婚して落ち着いたから、ぼくたちも結婚していいだろうって、アリサに言うんだな。そのとき、アリサの顔が青ざめた、とジェロームは読者へ報告するように述べてる。それからなんだ、アリサは教養書を捨てて通俗的な信仰書を並べて、信仰が深まっていくようになるのは。
 そうした変化をジェロームは詳細に独白的報告によって述べるんだけど、ただそうした変化を不思議に思うだけで、そのことの意味については一切考えないんだな。
 だけど小説が描いているのは、アリサが妹ジュリエットの自己犠牲に気がついて、そのために自らも禁欲的になったことが明らかだ。
 ジイドはジェロームがその事実を目にしながら、そのことに最後まで気づいていない鈍感な男として描いている。気づいていないからアリサと比較してジュリエットを卑俗だと思っているのだ。目にしたことについては繊細なんだけど、その意味については鈍感なんだな。
 だから私は「プラトニックな両思い」の原因は、姉妹の悲劇的関係こそが下部構造であって、宗教はその上部構造だと思う。
 この小説の最後で、アリサの死後、ジェロームはジュリエットと再会するんだけど、昔は最後の場面でジュリエットが泣いたのは、ジェロームに同情したからだと思い込んでいた。だけど、それはジェロームのナルシス的な視点である。
 ジュリエットが泣いたのは同情ではなく、姉のアリサの死の原因が、自分の自己犠牲だと悟ったからなんだ。で、ジェロ-ムは、そうした姉妹の自己犠牲の応酬という悲劇的関係に気づくこともなく、ただ自分だけの悲しみに浸ってるんだな。
 そんなジェロームの眼から見たら、確かにアリサは信仰と天上の愛に身を捧げた者に見えるだろう。だけど、結婚をして子宝に恵まれて幸せそうにみえる世俗の愛も、つまり誰からも犠牲とは見られないような生き方での自己犠牲もありうることには気がついてないんだな。
 ジェロームの独白では、アリサと対比してジュリエットを母親似の軽薄な女として描いてるが、本当はジュリエットの視点でジェロームが相対化されているのだ。
 作者ジイドは明白にそのことをこの小説の随所で描いている。


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