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文学の力
私は若い頃は小説が好きで、哲学は小説を読むための肥やしであった。
実際、吉本隆明や柄谷行人らの文学批評は哲学的でもある。
それがいつのまにか逆転して、哲学が読書の中心となり、小説は息抜きになってしまった。
江川隆男はイメージなき思考を徹底すると小説が読めなくなった、と述懐されている。(「超人の倫理」あとがき)
その点、私は大甘でヌルい思考なので、そこまでの心境には到達しないものの、かつてのようにイメージの世界に没入することが難儀になったのは確かである。
これはコメントをいただいた方のブログを拝見して、なるほどと思ったことだけど、スピノザは表象つまりイメージを虚偽の観念として過小評価しているが、一方で第二、第三種の認識へ寄与するものとしても位置づけている。文学作品が社会の実相を捉えているのであれば、イメージである表象もまた無視できない重要性があるのではないか、というものだ。
私にとってこれは実に刺激的な問題提起であり、つまり表象芸術の意義をスピノザ哲学でどう説明しうるか、という問題として受けとめた。
小説は今もなお私にとって捨てがたい魅力があるからだ。
そこで、以下、私なりの考えを述べてみたい。
論点を整理すると、表象である言語芸術としての文学の力とは何か?である。
スピノザによると力とは結果を生じさせる原因としての力である。
そして表象のみの観念は原因を含まない非十全の観念だから虚偽であり、原因としての力はないということになる。
表象は表象を生み出す原因を含んだ観念でなければ、真理としての力はない。だから言語が表象と等しいのであれば、言語芸術である文学には力がないということになる。
だが、文学は表象言語ではなく、表象言語の適用ではないだろうか。
つまり文学は表象にとどまるのではなく、表象を用いて何かを伝えようとする意志なのだ。
スピノザによると、意志とは意識された衝動であり、衝動とは自己の本質を保存しようとする努力、すなわちコナトゥスである。
したがって文学作品は、創作者の本質力であるコナトゥスを表現する意志である、と私は思う。そのために言語という表象を用いるのである。
スピノザもまた言語によって哲学を著している以上、当然ながら自分自身の本質力であるコナトゥスを言語という表象で表現しているのだ。
したがって、読者として文学の力を捉えるためには、イメージそれ自体を捉えるのではなく、イメージを本質の徴候として捉えなければならない。
その具体的方法としては、ドゥルーズがプルーストをシーニュとして捉えたことが参考になると思う。
アレッ、やっぱ哲学になってしまうか。
だけど表象を批判しているはずのドゥルーズもフーコーもみんな文学好きなんだよな。文学は単なる表象にとどまるものではない。言表(エノンセ)とは表象ではなく出来事なのだ。
ところで映画もまた表象芸術であるが、その力を捉えるには、イメージを徴候として捉える必要がある。これについては蓮實重彦が映画評論として徹底的に実践されている。その方法はフローベールや夏目漱石などの文学評論と完全に同一である。
言葉や映像などのイメージを徴候として捉えるとは、イメージの内容(想念対象)ではなく、イメージの形相(存在規定)を捉えることである。
エノンセもまた言述内容ではなく、言述の形相(存在規定)なのだ。
内容の秩序をストーリーとすると、蓮實重彦の言う説話論的構造とは内容とは別の秩序、イメージの形相の秩序である、と私は思う。
私見では、説話論的構造の超越的根拠として創作者の生と死があると思う。「コナトゥスを表現する意志」とは創作者の自由意志ではない。衝動は自由ではなく必然である。生の闘いは自由選択ではない。
したがってストーリーの内容によって創作者の表現意志を探求することは、形相という必然的本質によって意志を根拠づけるものではない。
「作者の不在」とは作者の自由意志の不在である、と私は考える。