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スピノザとサドと「死の本能」

 私がサドに惹かれる理由は、サドが幸福ではなく至福について考察した数少ない作家だからだ。それは題名に現れている。
 サドは「美徳の不幸」Les malheures de la vertu を書いたが、「悪徳の幸福」Les bonheurs du viceは書かなかった。
 彼が書いたのは「悪徳の栄え」Les prospérités du viceである。
    そしてジュリエットを指導したデルベーヌ修道院長は、私達の至福 notre félicité は他人の思惑には左右されないと述べている。
 つまり悪徳は不幸と対になる相対的な幸福ではなく、絶対的な至福なのだ。prospérité も félicité もともにラテン語由来であるが、サドは真理ではなく真実を述べようとするとき、母国語ではなくラテン語由来の言葉を選ぶようだ。

 一方、至福について考察した数少ない哲学者がスピノザであることは言うまでもない。
 「エチカ」が社会や自然哲学に部分的に言及しながらも、もっぱら人間精神と諸感情に考察を限定したのは、第2部序文のとおりである。 

 ただ人間精神とその最高の至福についての認識へといわば手をとるようにして導いてくれるものだけに限る。

「エチカ」第二部序 上野修訳

 この至福の探究はエチカに限らず、スピノザの生涯のテーマであったようだ。

 不断にして最高の喜びを永遠に享受するような或るものが存在するかどうかを探究してみようと決心したのである。

「知性改善論」序 上野修訳

 だが両者の至福へ到達する道はまったく異なる。
 スピノザでは第三種の認識によって至福へ到達するが、サドは拷問の反復によって至福へ到達する。
 まあ、私にしてみれば「エチカ」を読むのは精神的拷問の反復みたいなものだから、さほど大きな違いはないのかもしれない。

 だがそもそも両者はなぜ至福にそれほどこだわるのか?
 快適で安楽な暮らしができればそれでいいではないか。それは幾分幸福とも言える。人間はその程度の幸福で満足すべきではないだろうか。
 この至福への欲望の原因は何か?
 原因は結果が生じる力であるから、何らかの力が両者を駆り立てているのである。それは「死の本能」ではないか、と私は推測している。
 幸福と不幸がせめぎ合う世界を支配しているのが快原理とすれば、「死の本能」とは快原理の彼岸であり、その超越論的根拠である。それは快でも不快でもなく、それらの原因となるものだ。
 そして快楽を比較という否定を介した規定ではなく、快楽をそれ自体で否定なき快楽として絶対的に肯定するには、結果としての快楽ではなく、その原因を知ることが不可欠だ。
 通常の人間は結果としての快楽しか知らない。だから表象の世界で葛藤しながら彷徨っている。「死の本能」が快楽の原因であることを知る者のみが、快楽を比較抜きで絶対の至福として肯定できるのだ。
 それは快・不快の原因だから、サドのリベルタンは無感動を究極の至福とするのである。
 いわばサドは感情面で至福を探究したと言える。

 一方、スピノザは精神面で至福を探究している。
 スピノザは自己意識を表象知として結果を知らないがゆえに迷妄であるとしている。
 もっとも神が産出した諸観念はすべて真理であるから、表象知もそれ自体は真理である。ただ、表象知のくせに原因まで知っているという思い込みが迷妄なのだ。
(スピノザは原因を知る十全な観念も真理としているから混乱する。私は原因を知る観念は「真実」と呼んで真理とは区別したい。)
 記号論理学では命題に対応する事実があることを真理としているが、それは原因を知らないから真理ではあっても真実ではない。
 だから事実による検証により理論が実証されたというのは迷妄なのだ。
 それは表象によって表象を確認したに過ぎない。
 UFOの実在は証拠画像という表象によって真理と認定されるかもしれないが、物理学的原因が解明されないかぎり真実にはならない。
 よって第三種の認識は自己意識という表象ではなく、自己意識の原因を目指すのである。それは自己意識の発生原因としての形相的本質だ。
 スピノザの言う形相的本質は力能的本質であり、論理的可能性ではなく、必然的に結果へと現働化する潜在性としての原因なのだ。
 そして自己意識の形相的本質は、神の属性の中に永遠に含まれている。
 だが、それは結果としての自己意識ではなく自己意識を生じさせる原因だから意識ではない。無意識のような現働化する潜在性である。
 私には第三種の認識が形相的本質としてみた「死の本能」であるように思えてならない。

 スピノザのいう「思惟」は、私達の通常の言語の用法としての思惟とは異なっている。それは思考だけでなく、意志も感覚も含んでいる。

 意志、知性、想像力、感覚のすべての作用は思惟である。 

「デカルトの哲学原理」第1部定義 上野修訳

 人間は思惟と延長により成り立つとすると、痛いという身体的感覚はどうなるのか、と私は疑問に思っていたが、それは上記のとおり「思惟」に含まれるのである。痛いのが思惟だというのは面妖であり常識から離れている。
 つまり現代人が「経験領域」と呼ぶものが、スピノザの言う「思惟」なんだな。そしてスピノザは「観念」を思惟の形相としている。

 「観念」という名称によって私が理解するのは、任意の思惟の形相(中略)である。

同上

 形相とは普遍的本質ではなく、個物(任意の思惟)の本質だ。
 ゆえに意志や感覚を含めた私という個物の経験領域のすべてを現象学的に還元したものが、スピノザのいう「観念」即ち思惟の形相に相当するのではないか、と私は思う。
 してみると、「観念」は意志や感覚の形相でもあるわけだ。
 ゆえにサドが感情面で至福を探究したことを、スピノザは感情の形相的本質として探究したといえる。それが第三種の認識による「至福」なのだ。


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