神学の利点
高齢になりそろそろ暇乞いをする年頃になったため信心深くなったわけでもないが、もっと早く神学の利点に気づいていれば良かったと思う。
私のように趣味で哲学書を読んでいると、現代哲学は混迷しているとしか思えない。その点、神学は迷いがない。神は無限だから、神の探究が完了することはありえないのだが、だからといって探究を放棄するのではなく、人間理性の及ぶ限り探究しようとしている。その副産物は広範に及び、現代哲学よりも豊饒である。
なぜなら現代哲学は絶対的明証を重視するあまり霊的次元の探究を根拠のない妄想として排除しているからだ。
だからといって霊的次元を否定しているわけでもない。カントもヴィトゲンシュタインも、それを物自体とか語りえぬものとして認めている。
霊的次元と言えば大仰だが、これは少し反省してみれば誰でも直観できることであり、よほど浅薄な哲学でない限り、可知的領域の根底に不可知なものがあることを否定する者はいないだろう。例えば無意識が不可知である限り無意識に支えられた自己もまた不可知なのだ。ノエマを定立するノエシスも対象ではないがゆえに不可知である。それらを総括すると要するに存在者を支える存在それ自体が不可知ということだ。
現代哲学は一方では霊的次元を排除しながら、他方ではこの不可知の領域の探究に取り組もうとしているのだから混迷するのは当然だ。
そこで神学の利点だが、まず知的欲求の全面肯定がある。哲学のように探究領域を人間的次元に限定するケチ臭さがない。しかも人間的次元の探究も重視しているのだから欲張りである。人間的次元と言えば自律的で聞こえがいいが、要するに霊的次元を排除した世俗的次元ということだ。
何のために探究しているのか目的もはっきりしていてブレがない。それは知的欲求の終極である最高価値としての神の直観が目的なんだな。これに比べると、現代哲学は曖昧である。存在の探究といっても、何のためにそんな探究をするのか疑問に思ってしまうのは、新カント学派のように存在と価値を分離しているからであって、たとえ価値の源泉を存在によって根拠づけようとしても、それを最高価値と信じていないのだから、欲求とその目的が曖昧になるのは当然である。それはまた現代哲学は知的満足は得られても生き方の指針にはならないということだ。
高齢になって友人知人が亡くなっていくと、思い出されるのは青春の頃だけなのだが、かつて生きた思い出が美しくないのは残念である。自分にとって最高の価値があるものが何であるかは、親も社会も哲学も教えてくれない。だから相対的で部分的な価値に囚われてしまうのだ。悪が醜いのは自分の信じる価値の部分性に無自覚だからである。それはまた自分の欲求も生き方も本質に基づくものではないということだ。
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