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マレーシアの匂い(前)

   古いあぶらのにおい。大粒の雨のにおい。ふと鼻先をよぎる暑くて乾いた緑色の夏のにおい。私にとって、マレーシアを思い起こさせるにおいだ。誰にも言ったことはないが、なぜだか日本にいるのに、ああ、マレーシアのにおいだ、と感じることがある。

 2024年7月11日(木)、現地時間でいうところの午前八時半。私はこの国に帰ってきた。正確には、マレーシアの東側に位置するボルネオ島の北半分、第三の都市ともよばれるタワウにである。

 タワウは港町で、それを有するサバ州とサラワク州から東マレーシアは成り立っている。ボルネオ島の北半分は、母いわく右を向いた犬の頭に見立てられる。そして、ちょうど犬の顎の下に当たる部分にタワウはある。

 タワウ国際空港に着いて、スーツケースを引きながら外へ出ると、あいにくの曇りだった。雨のにおいがかすかにした。マレーシアのにおい。ふるさとのにおい。……そして私の祖国のにおい。そう思っていいだろうか。でも、私の第二の故郷なのだと胸を張りたくて、この国に、祖父母の家に帰ってきたくて、この十数年、私は必死だった。

 英語を学んだ。衰えた中国語を鍛え直すために、大学では第二外国語を中国語として学び直した。より高度な中国語を学ぶために、以前の大学のときには中国の大学へ一月、いまの大学では台湾の大学に半年、留学にも行った。マレーシア語の文法と会話の授業を履修した。

   マレー語のリスニングがよくなかったため、マレー語を扱うアルバイトを探した。接客のアルバイトをしたが、厨師たちはマレーシア人でも華人だったのは肩透かしだったが、五・一三事件の話も聞けて良い経験でもあった。店から最寄り駅までは遠くて、バイト終わりはいつも終電に揺られて帰っていた気がする。

 それから、アルバイトを必死にして飛行機代を稼いだ。新しいアルバイト先は経験を買われて雇われたのに、常に緊張感があって忙しく、やめたくなるときなんていくらでもあったけど、祖父母に会うためなら頑張れた。

 雨がぽつぽつと降ってきた。私はWe chatのアプリを開いて送られてきた車の写真を探した。母の弟である叔父、つまり舅舅(華語だとjiùjiu)に紹介してもらったタクシーの運転手とのチャット欄には、英語でのやり取りが残っている。写真に映る車のナンバーと色を確認して、白い車に近づいて手を振る。Helloと声を掛けてからスーツケースを預けて、ドアを開けて車に乗り込む。おそらくマレー系であるミスターとは英語で会話をした。

「センポルナには中国人がたくさん観光に行ってるけど、きみは行かないの?」

「ううん、タワウの祖父母の家に帰るんだ」

「へえ」

「十数年ぶりに会うから、向こうは私の顔なんて忘れてるかも」

「十年以上も帰ってなかったのか」

「そう」

「タワウは何にも変わってないよ」

 この渋滞もね、とミスターは目の前に並んでいる車の列を指さした。窓の外を小粒の雨が叩いていた。もしかすると、大粒の雨になってスコールが降るかもしれない。

「どこから来たの」

「日本」

「日本人なのか」

「母がサバハンなんだ。彼女はタワウ出身、日本人と結婚して日本に行ったんだ」

「なるほどね」

 空港を囲うアブラヤシから、色とりどりの家々へと街並みが変わる。

「きみは叔父さんが僕を紹介してくれたって言うけど、僕は毎日人を運ぶこんな仕事だから誰か覚えてないんだ、ごめんね」

「あはは!しかたない、気にしないで」

 日本人が珍しいのか、話すのが好きなのか、車に乗っている三十分ほどの間はずっとミスターと話していた。私の拙い英語と、ほぼ単語で構成された片言のマレー語を彼は聞いてくれた。

 だんだんと見慣れた景色が目に映る。どこもかしこも緑に溢れすぎるくらい自然豊かで、赤色の土をしたタワウ。一日以上かけて海を越えてここまで来たというのに、これから祖父母に会う実感はいまだなかった。

 煉瓦の壁の横を通る。うねる坂道をくだっていく。速度制限のために作られた凹凸を通る度に、シートベルトをしているのに身体が跳ねた。この感覚だって懐かしい。ここにたどり着くまでに見た景色は全部デジャヴみたいなものだった。新鮮なはずなのに、色褪せたフィルターがかかっているようなそんな感じ。

 見慣れた長屋の前をどんどん通り過ぎて、とあるプレートの前で車は止まった。茶色の屋根も、錆びた赤い門扉も、オレンジ色の煉瓦の壁も何にも変わっていないように見える。門扉の奥の青いドアは昔のまま開け放たれていた。

 青いドアから人影が覗いた。祖父がこちらへと向かってくる。祖母は立ち上がってドアからこちらを見ている。がらがらと門扉が開けられて、祖父が近づいてくる。

 ミスターから渡されたスーツケースを祖父が手に取った。彼と二三言、マレー語で話して、祖父は門扉を押して、私に先に入るように言った。糸みたいな雨が祖父と私の肩を少し濡らした。久々にこの眼で見た祖父は、随分と小さく、細くなったように感じた。前を向くと祖母が早く家に入るようにうながしてくる。

「こんなに朝早く着くなんて!」

「時間は伝えておいたじゃん」

 私はぶすくれたように言いながら、祖母を抱きしめた。高校一年生のときに、舅舅の住む半島のほうで会ってから十年は会っていない。ここタワウで会ったことなんて、本当に思い出せないくらい大昔だ。しわだらけの祖母はやわらかくてあたたかくて、かすれた思い出に残るあの感触そのものだった。

 スーツケースを部屋に運んでくれた祖父にもハグをする。固く骨ばっていて心配になる薄さだったけど、祖父は力強く抱き締め返してくれた。昔は、私と弟を両手に持ち上げられるほど力持ちで鍛冶屋だった祖父に、すっかり私の背は追いついてしまったようだった。

 家の様子はあまり変わっていなかった。舅舅が買ったであろう新しい大きなテレビとこれまた大きな冷蔵庫がある。玄関の青いドアの横には昔と同じく、中華式の日めくりカレンダーが掛けてあった。七月十一日の横に「回来」とボールペンで書かれている。泣きたい気分だった。ずっと、ここに帰ってきたかった。ここだって私の居場所なんだと示したくて、これまで努力してきたつもりだったのだから。

 部屋は昔の舅舅のものを借りた。きしんだ古いベッドは撤去されて、大きくてふかふかした新しいマットレスに変わっていた。日本から着てきた服を脱いで、祖母が用意してくれたマレーシアの服に着替える。半袖に半ズボン。柄が奇抜な色と模様をしていて笑ってしまった。日本ではあまりお見かけしないであろうセンスだ。

 祖母は私のためにマンゴーを切ってくれていた。裏庭にあるマンゴーの木から採れたものらしい。ああ、あの木か。まだ大きく育っているのかと懐かしむ。

 口数が少ない祖父はマグカップを片手に持ちながら、足を組んで椅子に座っていた。

 緑色のマンゴーの皮を剥くと、中は黄色く熟れていた。甘いにおいに誘われて噛み付くと、さっぱりとしたマンゴーの味が口いっぱいに広がった。日本のものより断然美味い。祖母はどんどんマンゴーを切って手渡してくれる。そのまま私は食べる。コタキナバルからタワウへ飛んできたのは、エアアジアの安いフライトだったから、機内食なんて当然なく、私は朝食を食べれずじまいで腹ぺこだった。

「婆婆,肚子餓了」

「你早上沒有吃東西嗎?」

「我直接從機場回來,沒有時間吃」

「你想吃什麼?」

「什麼都可以,要鹹的,不要辣的,我不能吃辣的」

「明白了明白了!等一下」

 お腹が空いたからなんか食べたい、しょっぱいのがいい、辛いのはいやだと子どもっぽくねだると、祖母はしかたないというように部屋の奥の厨房へ向かっていった。

 私はもう成人もとうに通り過ぎた25歳で、祖父母の助けにもなりたくて、この家に帰ってきたはずなのに、十数年という長い年月を経ても、私が祖父母の孫であることは変わらなくて、いい歳をして甘えてしまった。祖父母の前ではただの孫なのである。わかってはいるが、気恥しい。情けないような気もする。曲がりなりにも四半世紀も生きた25歳の人間がこんなにべたべたと甘えていいのだろうか。

ただ、祖父母は私のことをまだ16かそこらだと思っているようだと気づいたのは、その後、祖母が何年も前から私のために買って仕舞っておいたという、小さい子なら跳んで喜びそうなピンク色をした大きなくまのぬいぐるみを渡されたときだった。(これがプロフィール画像のものである)

 祖母が料理を作ってくれている間、スーツケースの荷解きをする。母から祖父母へのお土産もあった。祖母が好きだったワサビとマヨネーズ、あとインスタント食品の五目ごはんとちらし寿司のセット。

 PCや電子機器を机の上に並べて、整理する。これからここで祖父母と暮らすのだ。荷解きが終わった頃に祖母に麺が出来たと声をかけられた。

「從吉隆坡來啊?」

「不是。我已經跟你們說了,從東京到韓國,然後飛到亞庇。在亞庇機場等了六個小時後,坐飛機來」

「為什麼沒有從東京直接來亞庇?」

「婆婆!那個飛機早就沒有了」

 祖母が作ってくれた海鮮の麺をすすりながら答える。祖母はずいぶん忘れっぽくなった。前もって聞いていただろう、と祖父は少し怒ったように祖母をたしなめた。

 私が買ったフライトは一番安いもので、成田からソウル、ソウルからコタキナバル、コタキナバルからタワウへと2回も乗り継ぎがあるものだった。コタキナバル空港では早朝のフライトまで六時間も待たされて辟易した。祖父母が日本に来ていたころにあった、東京とコタキナバルを往復する便はとっくのとうになくなってしまったのである。

 久しぶりの祖母の手料理を味わいながら、会えなかった長い時間を埋めるように、会話をしていく。ぽつぽつと何処かぎこちなかった言葉たちは、キャッチボールを繰り返していくうちにどんどん速くなった。

 風を取り入れるために開け放たれた玄関から、雨に濡れた空気が吹き込んで、天井のシーリングファンにかき回されてから落ちて肌に触れる。マレーシアも夏真っ盛りだというのに、東京よりよほど涼しかった。

 翌日、朝の6時に私は祖父に起こされた。朝食を食べに行くらしい。マレーシアは基本外食文化だ。眠い目をこすりながら身支度を整えて、祖母を起こさないようにそっと門扉を閉めてから、外に止まっていた中古の車に乗る。祖父の運転を横目に、私は流れる景色を窓を全開にして眺めていた。からりと乾いた風が気持ちいい。

 まさか祖父の運転する車にまた乗れる機会があるとは思ってもいなかった。昔、タワウの華語小学校に留学していた頃は毎朝私を車に乗せて、学校が終わると迎えに来てくれていたことを思い出す。あのとき乗っていた車は、白くて、窓は取っ手を回して開けるタイプの古いものだったのに、今は黒い車に乗っているのがなんだかおかしかった。

 しばらくして、店店が連なる軒先で車は止まった。祖父についていくと、あちこちから声が祖父にかけられる。祖父の友人だという彼らは物珍しそうにこちらを見てくる。背筋が勝手に伸びた。

「このアモイはどうした?」

「外孫だ、ジップンモイだ」

 声がかかる度、祖父が立ち止まって、娘の娘で日本人だと説明するのでなんだかとても気恥しくてたまらなかった。

 茶室に入って、丸いテーブルを囲むプラスチックの椅子に座る。テーブルには祖父の友人たちがすでにコーヒーや茶を飲んでいた。祖父がまた私のことを説明するのを聞きながら、店員が運んできた熱々の甘いレモンテーを私はちびちびと飲んでいた。美味い。昔と変わらない味だった。

「華語は話せるのか?」

 急に水を向けられて、私はなんとか愛想良く答えた。

「話せます」

 さきほどまでと違って客家語ではないから、私でも会話はできる。

「なんで帰ってきたんだ?」

「大学が休みで、十数年ぶりに祖父母に会いたくて」

「いつまでいるの」

「九月末まで」

「へえ、そりゃ長いね」

「ビザなしで滞在できるのが最大90日間なので、ぎりぎりまでいようかと」

 いいことだ、と友人たちは口々に言って、会話は普通語から客家語へと戻ってしまった。こうなっては何もわからない。大学で初級とはいえ広東語と福建語を学んで、台湾でも台湾語の授業を履修したが、さすがに客家語は専門外だ。というより私は普通語しか上手く話せない。

 理解することは諦めて、頼んだ鶏包(鶏肉の肉まん)をもそもそと食べていく。真ん中に卵が埋め込まれた包子(パオズー)は案外大きくてお腹はいっぱいになった。

 そうして、7時になると新聞屋が来て、茶室の人々に新聞を配っていく。頃合だと店員を呼んで代金を支払うと、祖父は行こうと私に言った。他の茶室や、トラックの荷台に置かれた果物や野菜の値札を見ながら、祖父はしゃっきり歩いていく。私はさっきの茶室で買った、祖母への持ち帰りの豆沙包(あんまん)を手にしてついていく。

「あ、公公!ちょっと待って」

「どうした」

「菊花茶だ、買って帰りたい」

「ああ」

 店先に並んだ懐かしい黄色のパッケージをした缶を見つけて、私は立ち止まった。祖父に声をかけて店に入って手に取る。この国の菊花茶は大好きだ。少しだけ甘くて喉越しも良く、いつまでも飲んでいられる。ひとつ持って、レジに置くと、祖父が横から5リンギット札を取り出した。

「これは私が飲みたいだけだから自分で払うよ」

「你是我孫女,當然我付」

「自分のお金はあるから大丈夫だって!」

 慌てて、自分の財布から支払う。店員は困ったように笑いながら、私の5リンギットを受け取った。必要以上のお金をどうしても年金暮らしの祖父母に負担させたくなかった。これはもはや意地だった。祖父は渋々といったようにポケットにお金を仕舞った。

 車に乗って家へと帰る。青いドアを開けると、祖母はまだ寝ていた。祖父が移動させたテーブルに餡包子の入った袋を置く。時計を見るとまだ8時にもなっていなかった。老人の朝は早いというが、あまりにも早すぎる。これから二ヶ月半もこの生活を続けられるか不安になった。

 スーツケースから薬袋を取り出して、朝食後の薬をペットボトルの水で流し込んだ。マレーシアでは基本的に水道から直接水は飲めない。祖父母宅では、濾過器に水を入れた上に、沸騰させてから料理などに使っていた。さらに面倒なことに、よく水が止まる。断水だ。しかも停電も起きる。十年経ってもインフラ整備の水準が変わっていなくて心配になる。衛生環境で言えば、タワウもとい我が家はあまり良くない方だろう。家族ならまだしも、友達を泊められるような家ではない。昔からこうだから慣れているつもりだ。逆に言えば、日本の衛生環境は良すぎるくらいだ。そうして七月はなんだかんだトラブルもなく、見る間に過ぎていった。

 8月4日、日曜日。祖父母の家では毎週日曜日にサンデーマーケットに行くのが習慣だった。牛乳など買い出しをすべてここで済ませてしまうのである。日除けのためのテントを張った露店が見渡す限り立ち並んでいる。車を降りて、祖父母と別れる。

 私はぶらぶらと、飲食の露店が並ぶエリアを冷やかしていた。日本は猛暑だそうだが、やはり南国も暑い。祖母が集合場所に戻るまで、祖父といつも1時間以上待っているのだが(なんて原始的な待ち合わせ!祖父母には携帯電話を携帯するという発想はない)、早々に飽きてしまい、翌週から私は好きに市場を見て回るようにした。カラフルな飲料が大きなプラスチックの樽に入っていて一列に並べられている。たくさんの氷が入ったそれは水滴に濡れていた。童話のような水色をしたブルーバニラ、搾りたてのサトウキビジュース、国民的飲料のミロ、ココナッツ水、黒いチンチャウ、それにグリーンティーもとい抹茶もある。今日は何にしようかと考えて、シード入りのオレンジレモンティーにした。3リンギット。日本円で約90円である。安すぎる。

 露店の並ぶ大通りを避けて、人通りの少ない道を歩いていると、オレンジ色の小さなものが道端に落ちている。近づくとみーみーと鳴いて、足にまとわりついた。ねこだった。タワウは猫だらけ、マレー人が猫好きなのもあってどこもかしこも猫だらけである。だが、子猫はそうはいない。

 腹が減っているようなので、買っていたココナッツの白い粉がまぶされた緑色のオンデオンデをひとつ、目の前に転がしてやる。すると、ねこはがぶがぶと噛み付いた。中に仕込まれていた椰子の黒い蜜が地面にこぼれる。

 少し距離を置いて、ねこの様子を見守る。誰かが探しに来ることも、母猫らしい猫が迎えに来ることもなかった。

 決めた。その瞬間に私は動いていた。ねこを捕まえて早足で祖父の元へと駆けていく。ベンチに座っていた祖父にねこを預け、絶対に逃がさないでと何度も頼んで次の目的地へと向かう。露店のペット用品売り場だ。

 たどり着いた店のおじさんにさきほど撮ったねこの写真を見せて片言のマレー語で話す。

「Kuching, makanan, saya mahu, berapa?」

「☆#$/@」

 答えられたマレー語はまるでわからない。こんなことならもっと勉強しておくんだったと後悔なんかしたってもう遅い。

「Orang Jepun, tak faham Melayu, English ok?」

 とにかく、自分は日本人でマレー語はわからない、英語で良いか?と尋ねる。すると、おじさんは頷いて、いくつかの商品を指さした。それを全部手に取っていく。カリカリは駄目なのだろうか?と指さすと、babyと答えられた。カリカリは成猫用だそうだ。最後に猫がプリントされた手提げを手に取って買い物を済ませる。そのまま祖父の元へと走っていった。

 息を切らして戻ると、祖父の手の中でねこはじたばたと暴れていた。日本語でちゅーるマグロ味と書いてあるパッケージをちぎって、鼻先に近づけると夢中になって食べた。祖父がねこを地面に置いてもねこは離れなかった。そのままちゅーるを一本、二本と与えるとぱくぱくと食べきってしまった。小さな白いお腹がぽっこりと膨らんでいる。よほど腹を空かせていたようだった。

 祖母が戻ってくると、私は何食わぬ顔でねこを手提げの中に入れて抱き上げた。祖父母には反対されたが手放すつもりは毛頭なかった。

 車まで歩いていくと、また途中に黒い子猫が弱々しく転がっていた。まだ息があるかはわからない。祖父は言った。捨てられた子猫なんてここにはいくらでもいる。私は拾ったねこだけを抱きしめて黒猫から目を逸らした。全部は助けられない。私は身勝手でやっぱり愚かだった。

 家に帰って、現地の友人に連絡して、おすすめの動物病院を紹介してもらった。ありがたい限りである。ねこの様子を見ながら、私は猫を飼っている友人たちに相談しまくっていた。彼女たちの助言に従って、買ったミルクをやったり、身体を濡れた布でぬぐったり、トイレの世話をする。

祖母は外の檻に入れなさいと言ったが、それには断固反対だった。その檻にかつて居た兎はビアワ(華語だと四腳蛇)というデカいトカゲに隙間から齧られて死んでしまった。それに野犬だっている。ねこをそんなところには置いてはおけない。あまりに危険すぎる。

 翌日、私はGrab(日本で言うところのuber)で車を呼んで、動物病院へと向かった。暴れるねこを手提げの中に押し込めながら、英語でなんとか受付を済ませる。名前の欄も性別の欄も未記入で提出した。

 受付の前で待っていると、続々と猫と飼い主たちがやってくる。マレー人が多いが、華人もやってきた。年配の女性が華語で話しかけてきた。

「どうしたの?」

「昨日ねこを拾って」

「ふうん、ここの人?」

「いや、日本人です。母が華人で」

 どういうこと?と彼女は隣に座る孫らしき男性に聞いた。彼は、「外国人。おれたちとは違う」と答えた。その通りだった。いくらルーツを持っていても、私は20歳の時に日本国籍を選択し、現在外国人としてマレーシアを訪れている。残念ながら、どちらの国も二重国籍を認めていない。

当然、私はここで異人だった。

 ねこの名前欄が空欄なので、私の名前が呼ばれる。案内されて、診察台の上にねこを出すと、またみーみー鳴いていた。もう一度、私は日本人で英語で話してもらってもいいか、とお願いして、ねこを診てもらう。

結果、生後2ヶ月は過ぎたオスだと判明した。なんとか獣医師に言われたことを頭の中でメモして、最後に近くにペット用品の店はないか聞くと、彼女は近くの店を教えてくれた。

 頭を出そうともがくねこを手提げの中に押し込めて、また車を呼んでその店へと向かう。Grabはとても便利だ。着いた店で、またなんとか拙い英語で必要なものを揃えた。キャリーケースに子猫用のカリカリのフード、猫砂にトイレ、それに消臭剤。5000円以下で全て購入できたのだから円安といえど円のレートに感謝した。そして今ほど金を持っていて良かったと思うこともなかった。この資本主義社会において、選べる選択肢をいかに増やせるかは全て金にかかっている。

 キャリーにねこを入れて、ようやく家に帰ると祖母には無駄遣いをして!と怒られた。私は一切悪びれなかった。そのまま部屋でねこに試しにカリカリを与えてみる。ぽりぽりとねこは平らげたので安心した。ミルクはもういらないようだった。

 ねこはあまりに小さく、黄色い毛並みはぼろぼろに乱れていて、触ると薄い皮膚の下にはっきりとあばらの骨のかたちがわかるほど痩せこけていた。左目は膿んでいて、よく開いていなかった。

飼うにしろ、こんな綺麗でもなく、汚くて不健康な猫を飼うことはないだろうと祖母は言った。帰りの車でも華人の運転手に、猫を飼うことは大変で金がたくさんかかると忠告された。

だが、私はもう決めていた。あと一月半で帰る身勝手な自分だが、出来うる限りのことをして、拾った責任を取ろうと決めた。

 当時の日記があるので一部抜粋する。

 ──ねこ 風邪を引いているらしいので明日から薬を飲ませねばならない ドクターたちの手際が良すぎてできる気がしない ねこ お薬をご飯に混ぜても気づかないでいてくれるか

 ──ねこ めっちゃ撫でる手をなめてくる なぜ 悲しいとか怖いのがわかるのか なんで ねこと会ってまだ1週間しか経ってないよ

 ──ねこ 愛してくれるのうれしいけどわたしはそんないいにんげんじゃないよ お前を拾ったくせにあと1ヶ月したらお前を放って別の国に行くような無責任な人間だ

 ──あとはばあちゃんじいちゃんが面倒見てくれてる つくづく自分の面倒が見れない人間がねこを飼うもんじゃない 日本でねこ飼う前に実感できてよかった ほんとうに

 ねこを飼うことに反対して祖父母だったが、気がついたらふたりともねこのことをなんだかんだ可愛がっていた。

 ねこの名前は阿福と祖父がつけたが、響きが良くないとのことで、福福(Fúfú)と祖母に改名された。奇しくもそれは私が考えていた小福という名前と同じ意味だった。

 この子にこれ以上のつらいことや悲しいこと、飢えることがありませんように。幸福しか訪れませんように。そう願って、ねこの名前をいつも呼んでいる。福福。縁起の良い、とてもぴったりな名前だと思った。

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