noteで伝えたいこと。
「noteをはじめて6ヶ月記念日」のバッジを頂きました。これまでの拙い文章の数々を読んでくださった方々への感謝と同時に、noteを続けている理由をこのタイミングで改めて整理しておこうと思い、「そもそも自分がnoteのテキストで伝えたいことって何だっけ?」という根本的なところを考えてみました。
noteで書いている題材は主に日本酒や子育てや筋トレなど、普段の日常生活そのものやライフスタイルになるんですが、そういった自分の日常がいかに社会と密接に関わっているのか、それを言葉に直して発信することが、自分が社会と有機的に関与する一つのあり方だと思ってるんですね。
日常生活をどう過ごすかというのは、自分が社会とどう関わるのかとイコールだと思っていて。それは具体的にどんな仕事によって社会貢献するかという狭義の話ではなく、例えば普段何を食べて、何を飲むか、どんな本を読むか、何をして遊ぶかといった「モノ・ゴト」と自分自身の関係性そのものが社会に影響を与えてると思うんです。
それを発信することで、読んでくれた人にとって1ミリでも影響を与えたい。
その先に目指すのは、少なくとも排除されることのない、ただそこにいることをゆるく承認し合えるような社会。マイノリティがマイノリティのままで、色んな事情や背景を持った人たちがそれらを抱えたまま、少しでも安心して暮らせる社会。
いわゆる「多様性の実現」なんだけど、そこに至るのは現実的にはとっても大変なことだと思ってます。価値観が同じで共感だけが存在するコミュニティでは多様性は担保されないわけで、その外側にもしっかりと目を向けなきゃいけない。現在の日本を蝕む同調圧力の反対にあるような世界ですね。「みんな同じ」という「空気」とは反対にある世界です。
どうしてこんなことを書いているかというと、これまで仕事やプライベートで海外の色んな場所に行って日本に戻ってくるたびに、その多様性の欠如や同調性を求める空気に危うさを感じてきたからです。
海外の色んな場所に行って、時には住んでみて思うのは、自分に関わるすべての人々、時間、空間がいつも自分に快適さをもたらすなんて有り得ないということ。イライラもソワソワも不安も沢山あるし、日本的に言うと「迷惑」かけられることや理解できないこともいっぱいあるんだけど、それは日本という社会・文化の中で育てられた自分の奥深くにある美意識との衝突がある限り仕方のないこと。でも一方で刺激をもらえること、教えられることも沢山あるんです。
そういうの掘り下げていくと、当たり前のことだけど、日本の中にも色んな事情や背景を持った色んな人が暮らしてるわけですよね。どんな場所や環境でどんな大人に囲まれて育ったのか、それだけでも星の数ほど多様な人生があるわけで、「みんな同じ」なんて有り得ないわけです。だからこそ、逆説的だけど、社会は発展していくのであって。
これは何を意味しているかというと、自分の「共感の外側」にも沢山の人がいるということです。そういうゴチャゴチャした、混沌としたところも含めて社会なんだよなーという潔さが必要だと思うんですね。例えば価値観も考え方も賛同できないけど、でもそんな人も社会の一員だからという1点のみをもって助けなきゃいけない、関わらなきゃいけないって場面、無数にあると思うんです。
そんな多様性の担保された社会の実現に向けて。
自分と世界との多様なつながりに対する気付きを発信することで、読む人に1ミリでもいいから影響を与えることが出来たらいいなと思ってます。
究極的に言えば、自分とは全く関係のない「モノ・ゴト」というのはおそらくないはず。自分と「モノ・ゴト」とのつながり。対象は日本酒でも筋トレでも何でも、ある対象についてきちんと学んでそれを深く味わおうとすればするほど、自分と世界との色んなつながりが見えてくると思っていて。
そういうものを言葉で表現していきたいし、そのつながり、つまり気付きや発見を言葉にしたものこそ究極のオリジナリティだと思ってます。「モノ・ゴト」を通じて得た気付きや発見、内面の変化は自分にしかないものだからです。そのオリジナリティが、そのまま多様性の第一歩になればいいな。
そんな発信が、noteという有用なインフラを有意義に使う一つのあり方かなと思ってます。