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嶽本野ばらからメリーさんを考える

私の貯金通帳をママが箪笥の抽斗(ひきだし)に仕舞ってあることを、私は知っていました。家に戻り、 こっそりと自分の通帳残高を見ると、二十万円しかありませんでした。私は自分の通帳と共に仕舞われていたママの通帳と判子も一緒に持ちだし、次の日の朝、郵便局で二人の通帳をあわせ、 四十万、勝手に引き出しました。学校は行ったふりをしてサボタージュし、私は朝からデパートメントヘと向かいました。そして昨日、試着し、お取り置きして貰っておいた商品を全て購入しました。 ついでにシャツもいかがですかといわれ、 お金は残っていたので、 Viviene Westwoodのシンポルマークであるオウブのワンポイントが胸に入った白いプラウスも買うことにしました。買ったお洋服は早速試着室で着て、着てきたセーラー服をピンク色の Vivieneの紙袋に詰め込むと、私は街へと出ました。街が明るく見えました。あんなに街が明るく見えたのは初めての体験です。私は生まれて初めて、俯(うつむ)かず街を歩きました。ロッキン・ホースバレリーナはソールが異常に高い分、初心者にはとても歩き辛く、私は何度も路上で無様に転びました。しかしそのことをちっとも恥ずかしいとは思いませんでした。痣を目撃されることもちっとも気にはなりませんでした。派手な恰好をしている分、痣が目立つ、人目をひくことは充分承知していました。でも、そんなことはどうだっていいのです。私は私の為だけに Viviene Westwood を着るのです。私が私である為に、それで武装をするのです。(嶽本野ばら『世界の終わりという名の雑貨店』より)

・切なくて哀しい少女の生き様
・ロリータファッションをめぐる破滅的な筋立て
・美しいもの

人気作家・嶽本野ばらを語るとき、キーワードとなるのは上記のようなことがらでしょう。

嶽本野ばらは、澁澤龍彦の支援をうけた画家・金子國義のファンのようですが、確かに嶽本の耽美的な部分は澁澤色を感じさせます。また「少女(嶽本は「乙女」と呼んでいますが)」というキーワードは、「アリス」をテーマの一つにした金子國義的でもあります。

日本で独自に生まれたロリータ達にとって、 ロリコンは最大の敵です。 ロリータのお洋服や姿形は、“少女性“をデフォルメしたものであるともいえますから、ロリコン達はロリータに卑猥な感情を抱きます。多くのロリー夕達が、危険なロリコンの男性に拠って拉致されそうになったり、妄想の中で徽されます。ロリー夕達の大半は、現実世界の性的欲望に生理的嫌悪を憶えているのです。 従って、身体性に抗うような観念的なフォルムのお洋服を身に糠い、人工美を極めようとするのです。それなのに、肉体から遊離しようとしてロリータをしているのに、肉欲のターゲットとされてしまう。 ロリータがロリコンに必要以上の敵意を抱くのは、当然でしょう。(嶽本野ばら『ロリヰタ』新潮社より)

この「身体性に抗うような観念的なフォルムのお洋服を身に纏い、人工美を極めようとする」という部分がメリーさんのドレスとの共通性を感じさせます。

その一方「ロリー夕達の大半は、現実世界の性的欲望に生理的嫌悪を憶えているのです」の部分は、娼婦であるメリーさんとはちがいます。

しかし誰にも見せることのなかった彼女のこころの裡(うち)を推し量ると、嶽本ワールドとの親和性をひしひしと感じるのです。

「(前略)小学校一年生の時でした。私は誰よりも上手く踊りました。ステージが終わってから、誰もが私を誉めてくれました。誰も痣のことなんていいだしませんでした。私にはそれがとても恥ずかしかったのです。だって、 ステージから見えたのです。客席の前列の人逹の、私が登場すると同時に、私の顔を見て当惑した顔が」
「それ以来、私は自分の痣と向きあうしかなくなりました。痣なんて何か一つのことに秀でたり、気にしなけれは克服出来るという希望は断たれました。痣を克服出来ないものとして、向きあうしか、なくなりました。私は自分がお洒落には興味を持ってはいけないと決めました。だって、リボンを髪に結んだり、フリルのついた服を着れば着る程、私の痣は目立つのですから。そして、そのことを誰もが口にしないのですから(略)」(嶽本野ばら『世界の終わりという名の雑貨店』より)

メリーさんは故郷で結婚していました。しかし軍需工場でのいじめと自殺未遂を理由に、婚家から離縁させられます。実家に戻っても腫れ物扱い。村の人達は、全員そのことを知っています。人生は暗闇で明るい材料はなにも見えません。おまけに戦時中のことですから、生活の何もかもが統制されています。華やかなものも、お洒落なものも、すべてが取締りの対象です。彼女は人生を諦めていたのではないでしょうか。

そんなときです。文豪・谷崎潤一郎が彼女の目の前に疎開してきたのは。

美しいものが好きな彼女にとって、耽美的な作風を信条とする人気作家の登場は、大きな光となったはずです。

「ずっと、諦めていたのです」
「何を?」
僕は訊ねます。
「全てを」
「自分は何も望んではいけないと?」
「そうです。私が何をやっても、私の手の中には何も残りませんでした。何かやれば、恥ずかしさと自己嫌悪だけが私の心を満たすのです」
「君は自分を主張することを、これまでやってこなかったのだね」
「何かを主張することは、私にとって罪悪でした。今だってそうです。私は寡黙に、世界の隅にいる権利しか有してはいませんでした。誰かに笑われていやしないか、気味悪がられていやしないか、不愉快に思われてはいやしないかと、私はいつも世界の隅でドギマギしていたのです」
「でも君は、 Viviene Westwoodに出逢ってしまった。それを入手することを、君は諦めることが出来なかった」
「一寸の虫にも五分の魂なのです。世界の端に佇(たたず)む私にも、諦めきれぬものが眼の前に現れてしまったのです。苦しくも甘美な感情が私を占領しました。貴方のお店を見つけた時も、同じでした。私にはあのお店が必要だったのです。毎日、行かずにはいられなかったのです」(嶽本野ばら『世界の終わりという名の雑貨店』より)

彼女には、あの白いドレスが必要だったのでしょう。毎日、来て出歩かずにはいられなかったのでしょう。

『下妻物語』の主人公・桃子がロリータ・ファッションにみせる執着は、過酷な現実からの逃避のレベルを越え、「お洋服」が現実をサバイバルしていく同志となっている(松浦桃『セカイと私とロリータファッション』)そうですが、この点もメリーさんを彷彿とさせます。

桃子にとってフランスのロココ文化は、

彼女の愛する時代、芸術、思想、美学であり、同時にそれを体現することが彼女の生き甲斐であるといえる。この作品中での「ロリィタ」は、いわば彼女の生き方そのもののような存在であり、この物語の主人公がロリィタから見出だしたように、「生産性を持たない装飾過剰さ」「反社会的な享楽性や刹那的な思想を自他ともに感じさせる」(wikipedia「ロリータ・ファッション」より)

とのことですが、そのまんまメリーさんです。

メリーさんが「ロココ」なる時代や文化を知っていたかは分かりません。しかし彼女の精神性は「反社会的な享楽性や刹那的な思想を自他ともに感じさせる」ものだと思います。

長々と書きましたが、どうでしょうか。

おそらく嶽本野ばらのファンは、『白い孤影』で描き出したメリーさんのイメージを気に入ってくれそうだ、と思うのです。


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