躁鬱のメビウス~心を病んでからボードゲームばかりしている男の日記~1.運命のカルカソンヌ

きっかけはカルカソンヌだった

何かにのめりこむとき、たいていの場合はきっかけがある。自分がボードゲームに夢中になったのは、「カルカソンヌJ」(2000年/クラウス=ユルゲン・ヴレーデ作)と出会ってからだ。それまでも、飲み会の席に「ごきぶりポーカー」や「ハゲタカのえじき」を持参するぐらいには、ボードゲームやカードゲームを好んでいたつもりである。しかし、弟に薦められたカルカソンヌの面白さは、ある種、啓示的ですらあった。一度プレイしただけで虜となった自分は、躁うつ病で外出を控えていたこともあり、家でできるカルカソンヌに没頭していく。


カルカソンヌとは、パズルゲームと麻雀を一緒にしたようなゲームである。プレイヤーは2~5人。それぞれが7個(あるいは8個)のミープル(人型の駒)を持って準備完了だ。ルールはシンプルで、全部で71枚(+スタート配置1枚)の正方形のタイルを順番に1枚ずつ、好きな場所に並べていく。ただし、必ずすでに置かれているタイルと辺で合わせなくてはならない。また、タイルに描かれている絵がつながらない場所に置くのもNGだ。


タイルは「都市」「道」「修道院」の3種類。タイルは裏向きに積まれているので、手に取るまで何が描かれてかは分からない。タイルは1枚だけだと未完成である。2枚以上のタイルをつなげてようやく、都市や道、修道院が完成していく。完成を目指すタイルにはミープルを置き、「これは自分の領土である」とマーキングする。自分の領土が完成した際には、それぞれの絵に応じて得点がもらえる。都市なら2点×枚数、道は1点×枚数。修道院は上下左右、斜めをタイルに囲まれてようやく完成。そのかわり、得点は9点と大きい。


すべてのタイルが出尽くした時点で、もっとも得点を稼いだプレイヤーの勝ちである。最後に出来上がる、72枚のタイルによる地図は圧巻だ。ところどころ、未完成の都市や道があるのもご愛嬌だろう。緻密な戦略性と運に加え、「美しい地図を完成させたい」というロマンが勝敗を左右する。単なる知のぶつかり合いでなく、プレイしている時間そのものが対戦相手と共同作業をしているようで楽しい。カルカソンヌとの出会いは、精神がズタボロになった自分を癒してくれた。

1人プレイをするほどに入れ込む


カルカソンヌの対戦相手は「Boad Game Arena」というサイトで探せばよかった。幸い、自分は在宅ワークである。仕事の合間を縫って、いくらでもカルカソンヌをプレイできた。それ以外にも、1人2役でタイルを並べてみることもあった。どちらが勝っても負けても、所詮は自作自演。それでもいいのだ。繰り返すが、カルカソンヌが素晴らしいのは勝ち負けにあるのではなく、タイルを並べる作業そのものの快楽である。1人カルカソンヌは精神状態が悪化したときによくやる。意味もなく「死にたい」と感じたり、急に昔の出来事について怒りが蘇ってきたりしたときに、タイルと向き合う。少なくとも、その時間だけはネガティブな感情を忘れていられる。

なぜボードゲームの世界が心地よいのか


しばらくカルカソンヌをプレイしていると、「山積みのタイルから順番に1枚ずつ取っていく」というルールが非常に肝なのだと分かってきた。要するに、この手順があることでカルカソンヌには運の要素が生まれているのだ。純粋な実力勝負にするのであれば、カルカソンヌの使用タイルは最初から決めておくべきだろう。そのうえで、どのタイルをいつ並べるかの読み合いとをする。これなら、ジャンケンで決める先手後手以外に運の介在する要素はなくなる。(一般的にカルカソンヌは先手がやや不利とされる)。将棋や囲碁のような、競技性の高いゲームとなっていたはずだ。


しかし、タイルがランダムに配分されるカルカソンヌは、運次第で実力者が初心者に負けることもありえる。2人プレイではなかなか番狂わせは起こらないものの、3人、4人とプレイヤーが増えるほど運の比重は大きくなる。5人プレイになれば、ほぼ運で結果は決まる。なぜなら、プレイヤーが増えれば1人が引けるタイルの数も少なくなるからだ。


5人プレイだとたった14か15枚で得点を稼がなくてはならない。その中で、得点が少ない道ばかり引けば、ほぼ敗北は確定する。全部で6枚ある修道院が誰かに偏ってしまっても、パワーバランスは崩壊するだろう。カルカソンヌは未完成の領土についても点数が与えられる。つまり、修道院を密集させて置くだけで、完成を待たず、5、6点を得られることもある。それを3枚ほど引いて隣接させれば、いきなり20点近く稼げる。一方、都市はどんなに頑張っても3枚で稼げるのは6~8点。(旗付きの都市はボーナス点が与えられる)あまりにも要領が悪い。


ただ、これほどまでに緻密なボードゲームが、あえて「ゆるさ」を兼ね備えていたことが自分には嬉しかった。もしもカルカソンヌが実力だけで決まるゲームだったら自分はもっとプレイを苦痛に感じただろうし、そもそも熱中できるだけの精神状態にはなかった。自分がボードゲームを愛するのは美しさと運が中心にあるからである。ゲームのシステムやビジュアルそのものの美しさと、初心者も歓迎するゆるさ。自分に厳しく生きられなくなっている自分にとって、ボードゲームの優しい世界はとても居心地がよかったのだ。

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