風にはためくバスタオル
朝起きて布団を片付けていると、すでにパソコンの前に陣取っていた息子が立ち上がり、「おはよう、ママは何してるの?」と笑って聞いてきた。布団を畳む手をとめる。
それはキミに聞きたいよ。朝から笑って何か楽しいことでもあったのかい?
今日は風が強い。窓を開けると、部屋中を風が通り抜けていく。風は昨日から強かった。西日本から梅雨が来ると天気予報が告げている。
* * *
息子のことを上手く説明できない
3月に渡されたはずの成績表が今更出てきて、それを前に、また頑張ってみようかと息子と話し、個人指導塾を探して、昨日から電話をかけている。今どきオンラインも多い。オンラインの方が僕はいいかもしれない、と照れくさそうに息子は言った。
いくつか電話をかけたが、どの担当者からも、息子さんは?と聞かれる。かいつまんで話す自分と、それをまじまじと覗き込む自分がいる。
ちゃんと息子のことを説明できているのか。母親として自信のあったことがなかなか思い出せない。
子どものことを褒められたい
2年前、中学受験の日は、雪が降っていた。昇降口の外に並ぶ傘の間から、2日目の試験を終えた息子が現れる。駆け寄って、1日に受けた第一志望校の合格を告げると、彼の顔は綻んだ。
あのときわたしは何を感じていたのだろう。
報われたとかそういうことだったのか。いや、わたしは、たぶん純粋に、とても嬉しかった。
それは、自分自身が初めて褒められた時のような嬉しさだった。
息子はそれまでほとんど褒められたことがなかった。もしかしたら褒められる子どもは少数かもしれない。授業参観でも、正直何を見ていいのやら分からなかった。一度ぐらい発言してみたら?と言ったら、「先生、質問がわかりません」と言った。
学校に上がるまで気にしたこともなかったが、小学校に上がり、課外活動として地元のサッカークラブにも行くようになってはじめて、わたしは驚き、傷ついた。
どこにいても、息子はとくに真剣そうでもなく、活躍もせず、集団のなかでどちらかというと居心地が悪そうだった。
学校、サッカー、そしてつぎは学習塾と、外の世界が増えた。偶然友達につられて通ったのだが、案外やる気になって調子に乗り、親子で高望みし、難関といわれる中高一貫に受かってしまった。息子自身が行きたいと好きで決めた学校ではあったが、そこへ連れて行ったのはわたしだった。
思うように子どもが褒められないということに、囚われたわたしだった。受験を通じて、息子が初めて褒められたようで、舞い上がってしまった。
ありのままで受け入れられたい
受験の時点に至る前に、わたしが外界の息子に対する評価にとても傷ついたということに、わたし自身が気づいてやる必要があったと、いま思う。
もちろん、褒められるために人は生きてるんじゃない。
自分への憐憫の思いがあるわけでもない。
その傷は、未熟な母親にとって、とても原始的なものだったと思うからだ。
生まれたばかりの赤ん坊は、自分から出てきたのに、はじめは自分とは異なるものだった。新生児ベッドに眠る赤ん坊。隣の子と見分ける自信さえ確かでなかった。授乳の時間でなくても、子どもの顔を忘れないようにと、じっと見つめた。
当然赤ん坊は泣いてばかりだった。さらに、母乳も最初上手く出なかったり熱をもったりしたので、身を削るようだった。仕事が始まれば、疲れて子どもと泥のように眠った。無我夢中でそうしていたら、いつの間にか子どもは、壊れてしまいそうな、わたしの一部になっていた。
だから、その一部が、ありのままで受け入れられないことに傷ついた。真綿のように白くひ弱なそれを、外の世界の誰かにも、大事に扱ってほしかったのだ。
傷ついたままで
だから、わたしはあの時、立ち止まらなければいけなかった。
傷ついたね。泣いていいんだからね。
立ち止まって、向き合って、未熟な母親を、思いっきりおいおい泣かせてやればよかった。どれもこれも上手くいかないままだった母親のことも。大事な自分の一部をありのままで受け入れられたいと思った母親のことも。
自分の一部を解き放ち、子どもの中に埋まっているタネが安心して根を張れるような場所を探し、自分もそういう場所になるために、あの時の母親を抱きしめてやればよかった。
でも、わたしは自分のことをその時々に思いやることなく、ここまで来てしまった。
それで、間違いを散らかしたまま、もうすぐ母親業は終わろうとしている。
「別れる練習をしながら」という詩を読む
今週から再開したばかりの近所の図書館で、ある詩を読むために次の詩集を借りてきた。
『韓国現代詩選 茨木のり子訳編』(花神社/2004)
おそらく店頭には並んでいない。詩人の茨木のり子さんが選んだ、韓国の詩のアンソロジーだ。各詩人の考察にとても惹かれる。いつかまた読み込んで紹介できたらなと思う。
その中にある、趙炳華(チョ・ビョンファ)という方の詩だ。2003年に亡くなられている。戦前に筑波大で物理化学を学び、韓国の中・高・大で物理・化学・数学を教え、詩集を毎年出し、絵もかき、英訳・仏訳もし、ラグビー選手でもあったという。多才の人でありながら、詩の中には、どこかに大きな諦観があるようにも思う。若くしてずっと先まで見えてしまった人が、あみだくじのように、たくさんの道筋を残しているような。
「別れる練習をしながら」 趙炳華
別れる練習をしながら 生きよう
立ち去る練習をしながら 生きよう
たがいに時間切れになるだろうから
しかし それが人生
この世に来て知らなくちゃならないのは
〈立ち去ること〉なんだ
なんともはやのうすら寒い闘争であったし
おのずからなる寂しい唄であったけれど
別離のだんどりを習いつつ 生きよう
さようならの方法を学びつつ 生きよう
惜別の言葉を探りつつ 生きよう
人生は 人間たちの古巣
ああ、われら たがいに最後に交す
言葉を準備しつつ 生きよう
この詩を、繰り返し読んで、心に刻んできた。愛する人に手を振るたびに思い出した。これは練習だ、今日の練習がいつか永遠になるだろうと思った。そして事実そういう時は来るものだった。
息子とも早晩別れるだろう。わたしはわたしを抱きしめよう。未熟な母親への労いの言葉を探し、自分の一部を解き放ち、そして空になったところを抱きしめよう。
それが、わたしの立ち去る準備になるだろう。
* * *
昨日の夕方、瀬戸内海の近くで詩をつくるひとが、夕空にかかる虹の写真をnoteにあげてくれた。
写真の中で、虹は電線の上をひそやかに走っていた。きっと穏やかな風を受けて、雨上がりの匂いがしただろう。
ベランダで朝の風に吹かれて、遠くの虹のことを思う。
梅雨はそんなふうに、虹をかけて、今から始まるよと宣言させて、はじまるものだったろうか。
それに、梅雨はこんなふうに、強い風ではじまるものだったろうか。
午後から雨が降るというので慌てて洗ったバスタオルが、洗濯バサミに囚われて、風にパタパタはためている。いつも息子の枕にかぶせている縞模様のタオルだ。
彼のバスタオルはいつまでもはためいて、今にも思うままに飛んでいこうとしている。
それでわたしは思う。
いつか、風の吹く日の夕方、洗濯バサミを外すことにしよう。
そのとき、夕暮れのベランダから虹が見えるだろう。
虹は方々の小さなベランダから見えるだろう。
それで、そろそろ始まるよと律儀に知らせるだろう。
その時は、かつてのわたしも呼び出そう。
夕暮れのベランダで缶ビールも開けよう。
私たちはそれぞれにしなびたバスタオルを手にしよう。
狂気の沙汰だといわれても、振り回そう。
飛んで行ったタオルが見えなくなるまで、見送ろう。
小さいベランダは混み合っている。
ちっとも見えないよ、とみんなうるさいだろう。
その時にわたしは、したり顔で言ってやろう。
見てごらん、息子はとうとう虹になったんだよって。
それでまたみんなで笑って乾杯しよう。
縞模様のタオルだって分かっていても、そうだそうだと笑おう。
私たちの時間は虹のようだったよ。
※追記(6/12) 「毎日かあさんへのオマージュとして」
書いてから、ああ、どこかで、この気持ちを読んだと思い、西原理恵子さんの「毎日かあさん 14 卒母編」のことを思い出しました。開けっ広げなかあさんに、教えてもらうことが多かったなと思います。親子にかかわらず、人間との関わりの中で通っていく道なのかもしれないですね。
※追記(6/13) イラストを追加しました。