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教育とは教える者から教えられ、ダメな大人を見分ける事。

「いまの若いものは」。
これは、私が子供の砌より、5年か10年の周期で使われる言葉だが、そう言う人は、こう言えば優越感に浸れるとでも思ってるのだろうか、不思議で仕方ない。

そういう人を見るといつも思う。

貴方の子供の頃、貴方はそんなに立派でしたか?
貴方の子供の頃と、今の世の中の情勢や風俗は同じでしたか?

そして今の貴方は、今の若い者より立派ですか?

己を知れば、今の若い者を十把一絡げに考える事は、言い過ぎを承知で言えば、愚かで哀れだと思う。

と共に、仮にそう思うのであれば、何故若者を変えようとしないのかと、残念な念に駆られる。

実は最近、私は生まれて初めて迷っている。
それは今後の目的達成の為の、事業を決める事。

ボクシングは儲けは度外視なのでともかく、今後自社ビルが建ち、そこから得られる賃貸収入には殆ど手をつけないつもりでいる。

もう一つの業を、現在頭にある二つのうち、どちらにすべきか?

半年程考えても答えが出ないので、論語に学んだ「己を知る」旅に出た。

何も考えず放心し、一人好きな事に没頭すれば、己を知り答えが出る、という。

そして、私はピエロのような旅をする事となる。

金曜、夜21時に大分のホテル旅館に到着。
到着と同時に過労により頭痛。五分で気絶。

翌日正午。
風呂にも入らず、1人車を運転し帰る、という結末であった。

折角1人で出た旅だから一週間程逗留すれば、と思われそうだが、そもそも、二泊三日で予約したホテルである。

しかも、北九州に帰れば、溜まり上げた仕事がある。
というわけで私の余命は、3日であったのから二泊三日となる。

大好きな海を見に出歩くこともできず、2番目に好きな、夜景を見る為夜を待つ気も起こらず。

時間が惜しく感じた結果、シクシクと泣きながら、1人高速で車を運転し帰路に着いた。

二泊三日の宿代は、1人で101,000円である。
つまり2,5日で101,000円のお代なのだが、時間に換算すると、私は正味、1日すら居なかった事になる。

小さな所で気を使う私は「すみません、身内が危篤でして・・」。

ホテルに嫌な思いをさせない為、そう嘘をついたらフロントの若い女性は、まるで自分の身内がそうであるかのような顔で「大丈夫ですか!」。そう言った。

こう見えて、せこい私は「もしや、せめて50,500円返してくれないかな?」。

そう思ったが、当たり前に返ってこなかった。

勿論、返ってくるはずがない。

先述したよう、旅に出た理由は、下記のとおり儒教に学んだ事に依拠する。

迷った時は考えるな、好きな事に没頭すれば自ずと道は見える。

好きな事が読書しかない、つまり趣味のない私は大いに困った。

かのような理由により、思いつきで「大分の海と夜景に囲まれ本を読もう」と思い、ネットを叩き適当にホテルを予約した。

「今の若い者は」と言う人は「昔は良かった。情があった。半分のお代は返してくれた。カードやネット社会がこの情を無くした」。

こんな事を言う人がいるが、ちょっと待ってほしい。

ネットとクレジットカードで、数分でホテルを予約する現代の便利さを忘れてはならない。

言っておくが、私は昔より今がいいとか昔がいい、という事を語りたいわけではない。

便利な事はいいことだ。
だから殆どがネットやクレジットカードを使うのだ。

これをすぐ、個人情報の国による管理、国税局の仕掛け、などと何でも陰謀説に導き、懐古主義に浸る人がいるが、それでは世の中に進化はない。

私から言わせると、今の若い子はマナーが良くなった。
歩きタバコもせず、車からポイ捨てもしない。

北九州と言えば、夜はどこかで殴り合いがあるのが、昔は不思議ではなかったが、今の子は暴力を振るわない。
殴り合いなんか、日本中で死語となった。いい事だ。

今は虐めが陰湿だというが、昔も暴力の虐めで亡くなった子もいたし、自殺した子もいた。

では何が変わったか、を探るには明治維新から二つの日本の大戦。
そして、敗戦を学ばねばならないそうだ。

アメリカによる、日本への教育の干渉等々が一つ。

次に、日教組が漢字の読み書きを同時に教え、漢字を読める子が少なくなる。

漢字は、読み書きを同時に教えると、上達が速いという根拠も知っておきながら、無視をしたまま。

更に英語を優先し、漢字どころか修身教育を疎かにした事。

しかし間違いは、何処でも必ずある。

そこを責めてるわけではなく、歴代総理の指南役という方が存在し、総理や政治家はこぞって教えを請いながら、結局彼等は何も変わらなかった。

日教組に至っては、更に意固地になったのか、現状を見て改めるという思考すら放棄した。

例えば今、障がい者や老人の為に、スロープやバリアフリーがある。
とても便利で作った方は、きっと心優しき人であったと思う。。

目の不自由な方の為に、歩道に点字ブロックが、信号機には通りゃんせの音楽が流れる。

これも、作った方は同じく、優しい心根の方に決まっている。

しかしそれを使わずとも、ある時は手を引っ張り、ある時はおんぶをし、体の不自由な方や、お年寄りを助ける、という道徳の教えや教育は消えた。

便利な世の中に、慈しみや、利他的な気持ちがあれば、こんな喜ばしい世の中はない。

変わったのは、高度成長に走り過ぎ、義よりも利を重んじる世に、警鐘を教育が与えなかった事ではないだろうか。

写真にある著者、北尾吉孝社長は論語で育ち、再建の神様、土光敏夫氏や松下幸之助氏他、多くの王道を往く経営者は、儒学や歴史から多くを学んだ。

だが、学んだだけの人ならいくらでも居るが、これを良い思考と行動を軸に、商いをする人は少ない。

自分の都合の良い方に、無理矢理こじ付け、利のみの経営をする人の方が圧倒的に多い。

今も昔も若い者が、正しく教育されれば、正しく生き、死ぬ時に嗚呼、幸せだったと思える。

罪を犯した者でも・・・。
まあ、その罪の種類にもよるが、人の道を外さず、人を騙さず、裏切る事をせず生きてきた人は、自分の行動を省みて勉強すれば、私が書くような事程度は出来るはずである。

評論家は押し並べて否定とネガティブな当たりもしない予測から入り、自分の責任を取らず、折角この人はいいな、と思ってもテレビに引っ張りだこになれば、人が変わる。

テレビに常に出て人気が出ると言う事は、スポンサーや他の力が働き、言動は自然と変わる。

私はこれからも勉強し、若手を教え、教える若手から学びたい。

私はまだ己を知らない。
己を知る事は、本当に難しい。

勉強し続ける事は、偉くも何ともない。
強いて言うなら、生まれて来た人生に於いての義務でもある。

この義務を遂行する事を、楽しめなければならんと思う。
それが出来ない者は、更に勉強すべきである。

さて私の悲惨と思える旅も、こうして連想ゲームのように考えると悪いものではなかった。

一つ残念な事は、実は私のコンサルタント先の会社が旅費を出してくれたのに、つい辛抱が足らず里心に負け、一日も経たず地元、北九州に帰った愚かな私の行為である。

一つ救いがあるとすれば、本日、このお金を全額コンサルタント先に振り込み、返した事ぐらいではないか(笑)。

まだ55歳。

今から取るべき道を、偉そうに考えるには、まだ早いと言う事だろう。

「学び直す機会を」

武道と聖賢の学をやったことで、昔は二十歳前後で堂々たる人格の骨組を造ったものだ。
今日の青年子弟の教育を、先づその繁瑣より救うことから始めねばならぬ。
いま、何を学び、何を育むのかを、もう一度、考え直さないと、骨のない人間ばかりを造ってしまう。

安岡正篤



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