強者と弱者の見極めは?
下記の続編です。出来れば先にご一読下さい。
「おい暴力団!警察呼んだら、どうせお前ら何も言えんやろ!」
これは北九州と兵庫県で、中学か高校生位の男子が車道に自転車で
飛び出し、運転手が「危ないぞ」と注意した時の言葉だそうだ。
暴力団は悪い事をしたから、新法や条例が出来た。
悪い事をしたら逮捕されるのは当たり前の事である。
しかし暴力団が犯罪を犯す悪い集団だという事と、子供が目上の大
人にこんな言葉を吐いていい、という事にはならんと思う。
世論が倫理の根本を忘れマスコミに誘導され続けた結果、思考停止
となり、そこに疑問も抱かず考える事を放棄した。
その結果、強者と弱者が逆転してる事、更にそれに気づいてない事
につき、大人は恥を知るべきではないだろうか。
「街の怖いおじさんが、躾のなってない子を叱った」。
冒頭の行為における正しい表現は、これだと思う。
15,6歳のガキがこんな事を言う理由は「テレビやネットを見るな
らリテラシーを勉強しろ」と教えられてない事も要因の一つにある
と思慮する。
体罰はだめだと言うと、悪い事を叱る時、怒鳴る位で体罰だのパワ
ハラという事にされ、世論が耳目を引く事は何でも全てそうだ、と
言う空気が生まれる。マスコミが作り上げる。
経営、組織論を学ぶ時「みんなそう言ってる、そう言う社員は使え
ない」という下りがあった。
深く多角的に物を考えない人は、テレビで言う事が全て正しい、と
思うきらいがある。
その結果、一方の主張だけ取り入れた意見が「みんなが言ってる」
事となり、社会全体の総意と思い込み、思考停止した大人達は考え
る事を放棄した。
思考停止した大人が得た情報を、子供に教えるとこれは喜劇を超え
悲劇となる。
仮にその子が小学生だとしたら、子供は素直で真っ白な分、それを
正しいと思い、信じ込む。
「お前ら教師はどうせ俺を殴れないだろう」
こういう事例は頻繁に聞く。
これまた強者と弱者が入れ替わってるが、先に生まれ教育をする筈
の「先生」という言葉は、こうなると最早日本語の体を為さない。
こうしてめでたく、リテラシーのない子が出来上がる。
以前から私は執念く日本語をきちんと教え、日本の良い所は残し、
悪い所は反面教師にし、反省を心掛ける必要性を説いてきた。
リテラシーの語源は正しい日本語の読み書きを覚える事だが、それ
を教えずどうやって子供に常識、道徳を教えられるのだろう。
ガキが脇道から自転車で飛び出し、大人が叱る事は当たり前で日本
語を碌に知らぬガキが、冒頭の様な屁理屈にもならぬ理屈を言う。
余談だが昔、ボクシングジムの会長が、コンビニに屯する不良達を
叱り逆に鉄パイプで殴られ視力を失う、という事件があった。
なぜこの様な事件が起きた時、もっと世間は真剣に取り上げなかっ
たのだろう。
総理大臣や大臣クラスが上記の被害者だとした場合、果たして政治
は何もせず、対応策も協議せず動かなかったのだろうか。
私はジムで普段は怒らない。
しかしこれだけはだめだ、という事は曲げずに選手と向き合う。
例えば、怪我をしても選手は試合に出たい。それを嫌われてでも、
危ない怪我だと私が思えば、止めるのが指導者の役目である。
だからうちのジムのこの手の子達は、いまだにボクシングを辞めた
子も、家やジムに顔を出す。
何が正しい、と言う事は難しい。難しいがこれは間違いだ、という
事よりは簡単だと思う。
大切なのは何が正しいかを考え、ベストな答えを、深く掘り下げる
事が、教育、ひいては大人の義務の様に思う。
義務を放棄すると言うより、何が義務かも理解せず、生徒や子供の
権利を、自分の頭で考えずに解釈する大人が増えたから、年が経過
するほど若者の質が落ちる。
その結果、こうした歪な形で強者と弱者が、間違えた形で変わって
しまった。
誰それが不倫した、あそこの芸能プロダクションは、ウクライナが
どうした。
政治やマスコミに教育者は、その前にもっと足下にある大切な教育
を、何故深く考えないのだろうか?
将来、今いる多くの子供や青年は何も考えず、自己主張だけを述べ
謝る事や嘘をつく事は「信」を失う事、という事なんか今よりも遠
く置き去りにすると思う。
その時、何故そうなったのかを考えても、もう遅い。
選手ファーストだの子供の権利だの、弱者の耳障りの良い言葉ばか
りが先行した。
私の様な者の所でさえ、結構な数のボクシングジムの会長、指導者
が子供の事、イタイ親の事等の相談が少なからず来る。
この指導者達は子供を、選手を愛している。
だから相談を人にする。
しかし既述した様な事から、理不尽な事に耐えている。
中には親が関わる選手は移籍させる、と言うジムもある。
歴史に学ばず反省せず、考えさせず、その結果、日本の持つ矜持や
道徳が置き去りにされるのは、ちと寂しい。
YANAGIHARAボクシングジム
柳原 廣一