「独立国家のつくりかた」(坂口恭平著)と「庭の話」(宇野常寛著)とハンナ・アーレント
読書と妄想が好きなヤマモモです。
坂口恭平さんの「独立国家の作り方」を読んでいます。2012年の本です。3.11の影響をとても受けています。
この本の前に読んだ宇野常寛さんの「庭の話」を下敷にして読むと興味深い箇所です。
ハンナ・アーレントは人間の活動を「労働」「制作/仕事」「行為」という3つに分類しましたが、「独立国家のつくりかた」では「制作/仕事(work)」を重要視しています。
宇野さんは「庭の話」の中で、「制作」こそが他者や共同体を介さずに、直接世界とつながることができる方法だと指摘しています。自分を表現すること、自分の態度を示すこと、そして何かを生み出すことには大きな価値があり、それは他者からの承認や経済的な成功とは切り離して考えるべきだということです。
宇野常寛さんも坂口恭平さんも、この「制作/仕事」の中に最も深い幸福を見出しています。人は本来、制作に没頭することで世界との確かな手触りを感じ、深い充実感や喜びを得ることができます。
お金や承認という外からの報酬が絡んでくると、私たちはこの本質的な「制作/仕事」の価値を見失いがちです。単なる労働でもなく、他者との関わりを主とする行為でもない、この純粋な制作活動の意味が見えにくくなってしまうのです。
見えにくくなってしまうことに対する危機感や警鐘は二人から共通で発せられるメッセージです。
私は自分の中にある「制作/仕事」の本質を思い出し、それを継続し、そこに集中していきたいと考えます。そして、自分の子供にもそのような創造的な活動の価値を見出してほしいと思います。
私は最近、自分の中で何かが失われていることに気づき始めています。それは創作することの純粋な喜び、誰かに見せるためでも、評価を得るためでもない、ただ没入する時間の大切さです。
アーレントのいう「制作/仕事」の本質は、きっとそこにあるのだと思います。私が子供の頃、物語を書いていた時間。誰に読ませるわけでもなく、ただ書きたいから書いていました。あるいは、絵を描いていた時間。下手だとか上手だとか考えもせず、ただ描くことに没頭していました。そういう純粋な創造の時間が、いつの間にか日常から失われていったように感じます。
SNSへの投稿や、仕事での成果物など、すべてが誰かに見せることを前提としています。その度に、私は無意識のうちに他者の視線を意識し、評価を気にしているのです。その結果、「制作/仕事(work)」から遠ざかっています。
だから今、もう一度その原点に戻りたいと考えています。まずは、誰にも見せない日記をつけることから始めてみようと思います。あるいは、庭の一角で、収穫を目的としない植物を育ててみるのもいいかもしれません。大切なのは、その行為自体を目的とすること。結果や評価を求めないことです。
そして、そういう時間の中でこそ、私は本当の自分と向き合えます。
他者の期待や社会的な成功という物差しから解放されて、ただ純粋に何かを生み出すことに没頭する。その過程で、忘れかけていた何かを取り戻せるような気がしています。
子供を見ていると、彼らはまだその感覚を持っているように見えます。遊びの中で、全く実用的ではないものを作ることに夢中になります。その姿に、失ってしまった何かが見えるような気がするのです。
今、私は自分の内側に眠る「制作者」を少しずつ呼び覚ましていきたいと思います。それは急がず、焦らず。でも、確実に一歩ずつ、創造することの純粋な喜びを取り戻していきたいのです。それこそが、アーレントのいう「制作/仕事」の本質だと感じ始めています。