
【平安時代】重明親王の日記『吏部王記』の現代語訳―天慶五年(942年)
吏部王(重明親王)の日記『吏部王記』の現代語訳です。
長いので年代別に分けています。
今回は天慶五年(942年)の分です。
天慶五年(942年)
1月
1月14日
★『花鳥余情』巻第十一・初子
康子内親王が付き従っている麗景殿に参った。そこで、錦を被けた。〈侍女が、これを授けた。〉
その後、饗宴を設けた。〈水駅である。〉それから、昭陽舎に詣でた。盤に料理を盛られた。〈南北の対座であった。〉芻駅であった。1月16日 女踏歌
★『西宮記』前田家本・巻二・年中行事・正月・十六日女踏歌
踏歌のとき、主上(朱雀天皇)が座を起った。
大将・中将は座に伺候しておらず、警蹕はなかった。左衛門督(藤原)師輔に問うて言ったことには「先年聞いたことには、他の公卿が警蹕しなければならない。今、その事がないのは如何であろう」という。督が言ったことには「大臣がこの事を行います。他の公卿については、わかりません」という。「踏歌舞のとき、左近陣が誤って宣制を興した」という。「内弁(藤原)実頼卿は、所労があって退出した。師輔が内弁を行った」という。
2月
2月3日 釋奠
★『歴代残闕日記』所収『左大史小槻季継記』
釋奠があった。
直講有家は六位とはいえ、明法博士惟宗朝臣公方の上にいた。道のついでによるものである。
4月
4月2日 旬
★『西宮記』前田家本・巻六甲・年中行事・十月・旬・還宮後儀・裏書
「昨日は、廃務であった」という。
「宜陽殿に着した」という。
その後、神祇伯忠望王が内裏の穢により、座に着さなかった。日華門において見参した。外記がこれに載せた。
右大将(藤原)実頼が難儀して言ったことには「この座に伺候しないのであれば、見参簿に入れるのは難しい。先帝の御代における旬の日では、式明親王が御在所に付き従っていた。宜陽殿には着さなかった。故右大臣(藤原)定方卿がその事を奏上させた。あの時、少将として勅を伝え、見参を除かせた」という。
また、(藤原)師輔卿が言ったことには「日華門において見参するのは、軒に臨むときの例である。通常の例とするのは難しい」という。
そこで、大将は外記に命じてこれを除いた。
また、蔵人文範に成明親王の見参を奏上させた。すぐに勅許があり、これに入れた。
また、右大弁(源)相職が来て右大将に伝えて言ったことには「源俊・藤原元直・伴有道を次の侍従に補任するべきです〈俊はすでに先年、侍従に補任した。ところが爵位を奪った後、今、元の官位に復した。今日、太政大臣(藤原忠平)の奏上により、すぐに先例を調べた。源悦が四位の爵位を奪い、なおも五位を帯びた。そこで重ねて補任したことは見当たらなかった。今、俊はすでに六位になった。そうであればつまり、侍従を帯びるべきではない。そこで、重ねてこれを補任した。〉」という。
★『北山抄』巻第六・補次侍従事
右大将が仰せを奉って、源俊ら三人を補任した。
外記に命じて、さらに見参を追加して載せ、さらに陣硯を召した。その手は、夾名を注記した。輔を召し、これを下給した。4月27日 石清水臨時祭
★『西宮記』前田家本・巻六甲・年中行事・十一月・賀茂臨時祭・裏書
御在所において、宇佐奉幣使・石清水臨時祭使を発遣した。宇佐使は右衛門佐(小野)道風、石清水使は播磨守源允明朝臣であった。その舞人は、五位の者が四人・六位の者が六人であった。陪従・雑事は悉く賀茂臨時祭と同様であった。思うに、去る二年の兵乱により、祈り申されたのだ。「毎年、祭を行うべきである」という。
7月
7月28日 相撲
★『西宮記』松岡本・七月・十六日相撲式
従四位下左兵衛佐兼右中弁藤原師尹・左近少将源朝臣為善・左衛門佐源朝臣俊・右少将ーーが出居した。
9月
9月12日 信濃望月駒牽
★『政事要略』巻二十三・年中行事・八月下
信濃国の御馬牽があった。日の上卿は、中納言(源)清蔭卿であった。
近衛馬寮を召し進めたのは、通常のとおりであった。ただし、召しに従ってしばらく公卿の前に立っていた。〈延長八年の先例では、一度に□進を召した。〉中納言に命じて御馬を取らせた。共に称唯した。その後、また命じて言ったことには「数はそれぞれ十疋である。取手が順番に進んでこれを取れ」という。右方が第六の御馬を取る前に、左方が頻りに第七疋を取った。右方が六を取った。その後、外記に触れて多治比文雅が日の上卿を申請した。左寮が次を失って取ったこと、右司が頻りに取ったことを申請したことについて、中納言が先例を問うた。外記は先例を申した。そして、頻りに取らせたことを許可した。
11月
11月5日 臨時奉幣
★『西宮記』大永鈔本・第三冊・恒例三・九月・十一日例幣
「八省に行幸した。臨時奉幣があった」という。
「大納言(藤原)師輔が語るついでに陳べた」という。
貞観年間、中臣なき後、忌部が幣を預かって退いた。太政大臣忠仁公がこれを聞いた。中途から幣使を召還した。諸司の官人を以て中氏は使者を差し遣わした。そこで、忌部は幣を持つ職務のみを担った。中臣の職を執るべきではなく、使者に王宣命を下給した。その後、日の上卿が直ちに座を起った。この先例である。ところが、近年は内記があるいは難儀して言ったことには「必ず内記が筥を撤去した後に日の上卿が起たなければならない」という。先例にはないことである。11月22日 源盛明元服
★『花鳥余情』巻第一・桐壺
盛明源氏が元服を加えた。
右大将(藤原)実頼卿が冠を加えた。纏頭した。
大将が馬・鷹を各一を加えた。11月24日 新嘗祭
★『政事要略』巻二十六・年中行事・十一月二
中院に行幸した。私(重明親王)及び大納言(藤原)師輔卿は例によって幄の前に立とうとした。ところが、右大将(藤原)実頼卿・権中納言(藤原)敦忠卿が言ったことには「先例では、多くが本座に伺候した。また、幄の北幔を巻いた。近年の例、去る年の例はこのようであった」という。
私が言ったことには「先帝の御代では、最初にこの座に伺候した。故右大臣(藤原)定方が言ったことには『また、座にいた。あの時、座を避けて列立した。去る元年六月の神今食では、左大臣も座にいた。あの日、列立したときもまたこのようであった。本座に伺候した先例を見たことがない。また、諸衛は皆、幕の外に立つ。道理では、立って伺候することがよろしいようだ』ということだ」という。
大将が言ったことには「先例には、本当に起たなかった例があった。ところが、道理を議論したところ、座を避けるのがもっともよろしい。すぐに、共に幄の北に立ったのは通常のとおりであった。右近衛が大将の辺りに就いて宿直を申請した。先ず府生に宿直を申請して伺候することを相談させた」という。大将が名を問うた。府生が相談したことには凡常茂であった。大将が問うたところ、将曹は伺候しなかったのであろうか。常茂が申請し伺候することについて、大将は許可して申請させた。特に、将曹播磨文仲がこの事を申した。大将が言ったことには「文仲が必ず申請して伺候することは、府生に先例に乖くことを申させた」という。
この夜、左右近衛の大忌の幕数、神歌を唱えた。あるいは散楽・狼藉があった。公卿に命じて使者を召し、この事を教え止めさせた。11月25日 節会
★『政事要略』巻二十六・年中行事・十一月二
新嘗会があった。
右大将(藤原)実頼卿、特に諸国の国司が申請した擁政、まだ赴任に及んでいないこと、宣旨を申請するべき者の夾名を右大弁(源)相職朝臣に奏上させた。また、維摩会に参らない弾正大弼藤原中正の病の理由の申文を同様に託して特に奏上させた。〈この朝臣の病のことは、大将が知っていた。そのため、奏上させたのである。その他、はっきりしない者は皆除いた。〉
相職朝臣が言ったことには「先例では、もしかすると維摩会に参らなかった者を奏上したのでしょうか」という。大将が諸卿に問うたところ、はっきりとわからなかった。すぐにその申文を取り返し、その他の事を奏上させた。相職朝臣がすぐに大将に伝えて言ったことには「春道宿禰秋成・播磨宿禰武を猟使に遣わしました。必ず見参簿に入れるべきです」という。大将が大外記三統公忠を召し、維摩会に参らなかった者の障りを奏上した先例を問うた。申して言ったことには「差文及び参不の勘文を皆奏上しました」という。大将が言ったことには「そうであればつまり、必ず奏上するように」という。すぐに秋成に命じて、見参簿に入れるべきことを右大弁が奏上した。それから大将に伝えて言ったことには「先例があるならば、見参簿に入れるように」という。大将がすぐに重ねて中正朝臣の障りを奏上するべきことを告げた。
左中弁小野好古朝臣が大将に相談して言ったことには「年頃、親王は東の第三柱の下にいました。ところがまた、前年の例では第三間に進みました。大忌の座を平頭しました。今日、しばらく近年の例により立ちました」という。仰せに従い、進止した。大将が問うた。私(重明親王)が答えて言ったことには「延長三・四年に小忌を奉仕した時は、第三間にいた。舞姫に臨んで進んだ。しばらく座を起ち、下させた。ところが同六年、小忌のために預かり下したのは、近年と同様であった。それ以来、多くはこのようであった」という。大将が言ったことには「今日は、しばらく近例に依るように」という。
後になって、ただ様子を確かめてこの事を決定した。左大弁(藤原)在衡に命じた。在衡は御酒勅使に命じた。大弁は南欄に立った。少し西北を向いた。私は、大納言(藤原)師輔に問うた。卿が言ったことには「正面を向きません。この例です」という。右大将が私に問うて言ったことには「大歌を舞台の北において召したことは、奏上すべきであろうか」という。答えて言ったことには「先帝の御代では、あるいは仰せがあって召させた。特に内弁を見なかった」という。この事を奏上した。年頃、日の上卿、直ちに命じてこれを召させた。大将が直ちに内豎に命じてこれを召した。11月29日 賀茂臨時祭
★『政事要略』巻二十八・年中行事・十一月四
賀茂臨時祭があった。
戌四刻、使者が賀茂社から帰ってきた。
私(重明親王)は右大将(藤原実頼)と共に勧盃した。すぐに召しにより、御前に伺候した。その他の卿は、進盃に従った。同じく召して伺候させた。酒肴を下給したのは、通常のとおりであった。藤原清行が琴を弾いた。舞人の歌にふさわしい者及び陪従をついでに試した。命じて本末方を分けて進上させた。〈琴元は、座頭にあった。〉
大忌の侍臣は、勅によって一両人を試した。庭火を試した。右近将監が平安を以て直ちに本方のために琴を取った。〈殿上の侍琴を用いた。〉
『吏部王記』の現代語訳シリーズ
▶天慶五年(942年) ←今ココ