見出し画像

【平安時代】重明親王の日記『吏部王記』の現代語訳―天暦四年(950年)

吏部王(重明親王)の日記『吏部王記』の現代語訳です。
長いので年代別に分けています。
今回は天暦四年(950年)の分です。

天暦四年(950年)

1月

  • 1月1日 節会
    ★『妙音院相国白馬節会次第』
    節会があった。
    右大臣(藤原師輔)が立楽を促した。申請して言ったことには「雅楽頭が参りません。代官を申請するべきです」という。
    ところが、日の上卿が陣頭に就いていない。そのため、その事を申請することができなかった。
    「右大臣はすぐに宜陽殿に就き、代官の奏上を伝えた」という。

  • 1月2日 大饗
    ★『玉類抄』
    大饗があった。

  • 1月7日 節会
    ★『西宮記』前田家本・巻一・年中行事・正月・七日節会
    節会があった。「雨儀であった」という。
    その後、左少弁好古が承明門の東一間の壇上に立ち、目録を奏上した。
    民部卿(藤原元方)が言ったことには「必ず廊下において禄し、西北にしてこの事を奏上するように」という。〈後日、弁が言ったことには「年頃の先例では、皆このようであった」という。卿は、久しく弁官を経験している者である。どうして善を知らないことがあろうか。〉

  • 1月14日 男踏歌/御斎会内論議
    ★『花鳥余情』巻第十三・初子
    中宮に参った。饗宴を開くことになり〈様器を用いた〉、水駅であった。
    また、院侍に伺候した。しばらくして、(朱雀)上皇が寝殿に還御した。(男)踏歌が終わり、饗宴を開いた。芻駅であった。

    ★『御質抄』末
    衆僧が参り入った。
    寛空僧都が問答の兀子を進上したとき香水を加持して、一灑して座に戻った。権律師延珍が答者の座の北に立った。「読僧の交名」という。

  • 1月29日 藤原安子が若菜を献上
    ★『師光年中行事』正月上
    「この日、女御(藤原)安子朝臣が若菜を献上した」という。

3月

  • 3月11日 花宴
    ★『拾芥抄』上末・楽器部・三十五
    花宴があった。
    御遊、山水があった。

7月

  • 7月7日 藤原安子の産養
    ★『花鳥余情』巻第二十七・寄生
    この日の夕方、藤女御(藤原安子)の産養があった。
    産婦の饗饌は、重十六合・破子七荷・屯食八具・碁手の銭二万であった。
    贈り物は、児の衣・襁褓むつきが各五重であった。支佐木の筥二合に納めた。〈白絹の嚢があった。〉

    大蔵丞藤原守忠を遣わし、伝言して言ったことには「物は品性に欠けるが、今宮(皇子憲平)の贈ったのだから、思うに意図があるのだろう」という。
    報せて言ったことには「恩問の準備を整い、恐れながらも喜ばしいことは以前から深い。まして、宮の恩命を承り、恐れ多いことに極まりない」という。
    すぐに白い細長一重・袴一具を纏頭した。守忠に門を離れさせ、伝報を追って禄を下賜した。

  • 7月23日 皇子憲平、親王宣下
    ★『西宮記』前田家本・巻十一甲・臨時戊・立皇后太子任大臣事・裏書
    「憲平親王を立てて皇太子とする」という。
    掖門を開かないようにとの仰せがあった。
    ただ、承明門・建礼門を開いた。拝舞しなかった。再拝しただけであった。

    ★『西宮記』前田家本・巻十一甲・臨時戊・立皇后太子任大臣事・裏書
    左大臣(藤原実頼)が御前に参り、坊官について議論した。草案を持ち、陣座に就いた。折界・硯を召し、左大弁(源)庶明に清書させた。〈大夫以下が草案を除いた。〉

    この時、大納言(藤原)顕忠が召しによって御所に参った。皇太子傅に任じる草案を持ち、仗下に戻った。同じく庶明に託し、これを書かせた。

    これより前、左大臣が階下を経由して御所に参った。春宮大夫以下の召名を奏上し、戻った。大納言は皇太子傅の除目を左大臣に目示した。左大臣は返し託した。すぐに奏上したことは、前例と同様であった。大臣は外記に式部を召させた。大丞清雅が宣仁門から入って軒廊の北に立った。大臣が召名を召されたことは、天慶の例と同様であった。
    「天慶七年、大納言(藤原)師輔が春宮大夫を兼任した。やはり自ら名乗らなかった。総じて奉行した。今、左大臣は自ら皇太子傅に任じた詔を奉らず、大納言が別に奉った。先年の例のようではない」という。

    その後「王公が東宮に参った」という。右中将義方が勅使として、御釼を持って参ってきた。すぐに寝殿の南欄に召し、白い大褂を下賜した。「ところが、退出した」という。

    その後、春宮亮(源)雅信に王卿が伺候した旨を啓上させた。
    その後、中門に来た。王卿は一列に入り、西対の南庭に立った。雅信が伝令した。王卿は拝舞し、退出した。雅信が伝令したことには「座に伺候させよ」という。
    三献の後、諸卿及び帥親王が勧盃した。その後、禄を下給した。拝さないよう決定があった。各々、退出した。

8月

  • 8月5日 東宮御百日の儀
    ★『西宮記』前田家本・巻十一甲・臨時戊・皇太子対面・裏書
    東宮(憲平親王)に百日餅を供進した。通常の供膳大盤に供えた。
    唐菓子・木菓子・餅・干物、各八種を様器を花盤に盛った。女房・女官・四衛の陣に饗宴を開いた。各々、碁手銭があった。殿上の女房・女官には各十貫。近衛には、各四貫であった。

9月

  • 9月5日 一分召
    ★『源語秘訣』
    一分の除目があった。
    今「一労の書生は、この揚名書生に譲った」という。

    ★『揚名介事勘文』
    一分召があった。
    諸道の挙を決定した。
    後任の省の史以下は、兼国、書生に至った。
    (式部)大輔が申して言ったことには「厨女に労があります。官人が頼ったのは急なことでした。そこで書生一人の名を返し、その給物をこの女に下賜する。あの勤めを優遇するべきとはいえ、給官については、物の聞こえがあることを恐れる。実挙を申す」という。
    すぐに仰って言ったことには「給物については、誠に手厚く取り扱わなければならない。どうして官班を女人に賜うことがあろうか。今、情実はすでに明らかである。名を冒して官を賜うべきではない。その先例を調べた者、大録を召し、一分の所に下して勘申する」という。

10月

  • 10月4日 承子内親王御着裳の儀
    ★『西宮記』大永鈔本・第八冊・臨時、内親王着裳
    承子内親王が初めて袴を着用した。
    主上(村上天皇)は飛香舎にいらっしゃり、袴の腰を結んだ。御肴を供進した。沈香の折敷六枚、銀の土器の様器を弁備した。
    昇殿の公卿が、次にまた、簀子敷に伺候した。殿上の侍臣は南軒廊に付き従った。酒肴を提供した。曲宴で気持ちよく酒に酔った。

    「御衣一襲を右大臣(藤原師輔)に下給した。その公卿以下、内親王家に禄を下賜した。公卿には女装束一襲。四位・五位の者には白い細長・袴を各一重。六位には袴一具であった。その殿上の男女の房に饗宴を儲けた。所々の諸陣に屯食を提供した」という。

  • 10月8日 残菊宴
    ★『西宮記』大永鈔本・第三冊・恒例三・九月・九日宴
    召しがあった。未の刻、参入した。
    侍臣・文人が共に座に就いた。博士を召し、御題を献上させた。
    一献の後、左大臣(藤原実頼)、私(重明親王)及び中務卿(式明)親王は後に参った旨を奏上した。内豎がこれを召した。すぐに昇殿した。

    庶儀は、重陽の宴に准じた。ただし、茱萸を着用しなかった。菊花を立てなかった。茱萸がなければ、そうなるのであろう。すでに菊花を観賞した。立たないのは礼儀に反する。
    殿上の文台は御前に当たり、南欄に立った。〈延長年間の時は、南廂の東第四柱の西に立った。今日は、失儀である。〉

    三献はまだ終わっていなかった。
    別当(源)高明卿が坊家の奏書を奉った。右大臣(藤原師輔)は咳をして驚かした。酒を持って巡り、終わったらこの事を奏上しなければならない。それからしばらく、音楽を発しなかった。左大臣が言ったことには「内宴の例によると、奏者を見てから退いて音楽を演奏する」という。楽前の大夫は校書殿の南第三・第四面に当たり立っていた。〈延長年間の時は、校書殿の南端に当たり立っていた。参音声が終わったら、必ず退かなければならない。しばらく立っているのは失儀であるという。

    左少将(藤原)伊尹が空手に進み、殿上の文台の筥を取り、戻って降りて殿上の筥を加え取った。殿の東廂の入母屋の東面の第一間を経由して、大臣の座の西南に置いた。伊尹は、初めて私に筥を置く儀について問うた。すぐに延長年間の先例を示した。少将が言ったことには「内弁□□□□□□□□□□□□□□□(欠字)大臣、台盤の上に置くべきだと伝えた」という。答えて言ったことには「叙位の日に位記を置くのは通例である。詩を講じる時は平座に就く。どうしてさらに盤上に安置することがあろうか。とはいえ、大臣の仰ったことにはきっと拠り所があるのだろう。様子を確かめて行うように」という。そこで、伊尹は筥を捧げて大臣の座の後ろに跪き、様子を伺った。特に処分はなかった。その後、これを置いた。

    また、内宴の通例では、次将が弓を加えて筥を取り、節会の杖槍を杖頭に立てた。そこで、拱手して進んだ。〈秉燭もまたこの時のようであった。〉次に、音楽・舞踏があった。その後、左大臣が維時朝臣に命じ、在昌・直幹・元夏を召させた。江宰相が殿を下りて博士に告げさせた後、南欄に進んでこれを召した。
    左大臣が言ったことには「御酒の勅使を命じよ」という。これは、殿を降りて夾名を知らないからである。今、名を指してこの事を命じた。必ず直ちに進んでこれを召した後、殿を下りて告げさせなければならない。「諸儒が進んで伺候した」という。

    左大臣は元夏を召し、詩を読ませた。他の儒者は公卿の南に侍っていた。左大臣は詩を広げ、右大臣がこれを撰んだ。左中弁朝綱の佳句があった。盃を献上させた。まず講師に及び、殿上の献詩者、上総太守章明親王・参議維時朝臣及び私であった。参議が台についてこれを献上した。「親王が上った詩及び講詩のついでに左大臣に乞い、これを求めた。そこで、これを与えた」という。御製を講じさせた。朗詠が終わる前に、左大臣がこれを奪い懐した。右大臣が言ったことには「先例では座に当たり、第一の人がこれを領する。左大臣が強引にこれを領したのは、疑問に思うところである」という。

    「今年十月五日、凶会日・欠に当たる。そこで、儀式を行う時は八日を用いた。ただし後年は、五日を用いるようにとの決定があった」という。

    ★『政事要略』巻二十四・年中行事・九月
    〈九日の節会を停止した後、属文の徒は常に愁い、寂然としていた。今、新しい儀式が決まった。来月の上旬に残菊宴を行うことになった。その時期は玉燭宝典に准じ、今月五日がよろしいとの事をおおよそ決定した。ところが、あの日は凶会日・九坎日に当たり、しっかりと本文に准じるべきではあるが、暦道の忌みによって五日から延期した。八日に遂げ行うことになった。ただし、明年以後は五日に行う決まりとするべき事を、昨日定め下された。〉

    式部少輔三統元夏が殿下の文台の筥を執り、東階の下に到着した。
    左少将藤原伊尹が空手に進んで殿下の文台の筥を執り、東階に戻って殿下の筥を加え執った。殿の東廂の入母屋の東面第一間を経由して、大臣の座の西南に置いた。
    (以降は上の『西宮記』大永鈔本・第三冊・恒例三・九月・九日宴と重複するため省略)

  • 10月25日 東宮帯刀試
    ★『西宮記』前田家本・巻十一甲・臨時戊・立皇后太子任大臣事・裏書
    治部卿兼明が勅使として右近埒に向かい、春宮の擬帯刀を試した。
    春宮坊の亮以下は、事前に試していた。「まず騎射を試し、次に歩射を試した」という。

11月

  • 11月17日 新嘗祭
    ★『政事要略』巻二十六・年中行事・十一月二
    新嘗会であった。
    殿の座の後ろに就いた。内弁は、左大臣(藤原実頼)に今朝大歌別当を補任する宣旨を下したことを告げた。
    右大臣(藤原師輔)は座に伺候し列に加わらなかった。群臣の座が決まった。そこで、殿に昇った。左大臣がその理由を問うて、右大臣が答えて言ったことには「所労があるので、列に就きませんでした。免列の宣旨があったわけではありません。大臣はやはり列に就くべきではありますが、その列に伺候しなかった者は、供膳の後に内弁がその旨を奏上して召すべきです。ところが、内弁は直進を奏上しませんでした。すこぶる疑問に思うべきことです。もしかすると、内侍に託して奏上させたのでしょうか」という。

『吏部王記』の現代語訳シリーズ

天慶年間

▶ 天慶元年(938年)

▶ 天慶二年(939年)

▶ 天慶三年(940年)

▶ 天慶四年(941年)

▶ 天慶五年(942年)

▶ 天慶六年(943年)

▶ 天慶七年(944年)

▶ 天慶八年(945年) 

▶ 天慶九年(946年)

天暦年間

▶天暦元年(947年)

▶天暦二年(948年)

▶天暦三年(949年)

▶天暦四年(950年) ←今ココ

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集