見出し画像

【平安時代】重明親王の日記『吏部王記』の現代語訳―天慶九年(946年)

吏部王(重明親王)の日記『吏部王記』の現代語訳です。
長いので年代別に分けています。
今回は天慶九年(946年)の分です。

天慶九年(946年)

4月

  • 4月20日 譲位
    ★『河海抄』巻第十三・若菜下
    ご病気のため、急遽脱屣した。
    延喜の御例を摸したのであろうか。

  • 4月22日 綾綺殿遷御
    ★『西宮記』前田家本・巻十一甲・臨時戊・天皇譲位事・裏書
    「今上(村上天皇)が綾綺殿に遷御した。この日、建礼門にいらっしゃった。伊勢大神宮幣使を発遣した」という。

  • 4月28日〈戊子〉 即位式
    ★『西宮記』前田家本・巻十一甲・臨時戊・天皇譲位事・裏書
    今上(村上天皇)が即位した。
    寅の刻、左褰帳麗子女王が八省院に参った。庇差車に乗った。従車は、八両であった。〈檳榔毛六両。其の一両は金飾であった。板車は二両であった。〉従女は十二人、童女は四人、下仕は四人であった。

    大極殿の東軒廊に北面した。
    東福門の東に休幕を設けた。
    東廊の内幕の北四間を倉所とした。

    卯の刻、私(重明親王)は昭訓門の外にある休幕に参った。
    大路を囲み、清子命婦が理髪を務めた。その後、白い細長二領・袴一具・白い絹二疋を下給した。大極殿の竜尾道の装束は、元正の朝賀と同様であった。ただし、奏賀の版位はなかった。内弁の座の前に白木の机を立てた。竜尾道の下にある宣命版の南側に位記の机を対立した。〈式部二脚、兵部二脚であった。〉

    辰の刻、内弁右大臣(藤原実頼)が位記の筥を内裏から持ってこさせて、昭訓門の南にある休幕に就いた。中納言(藤原)元方卿が相従って宣命を受領した。

    巳一刻、天皇の御輿が大極殿の後房にいらっしゃった。

    巳二刻、大臣が軽幄に就いた。叙位の下名及び位記の筥を下給した。伝え聞いたことには、その儀は大臣が兀子に就いた後、内記が位記の筥をその前机に置いた。大臣が内豎を召すことは、二声であった。別当大蔵丞藤原時頼が称唯した。幄の後ろからその南頭に立った。大臣が宣し、式部省・兵部省の二省を召した。時頼は称唯し、昭訓門を出てこれを召した。両省の丞が各一人ずつ同門を入り、幄の南側に立った。〈北面して西を上とした。〉
    大臣が二省を召して下名を授けたのは、正月七日の儀と同様であった。
    二丞は、同門を出た。叙人を召し計った。大臣は再び内豎を召した。すぐに別当時頼が称唯した。南に伺候した。大臣が宣したことには「二省を召せ」という。時頼が称唯した。退出してこれを召した。

    式部輔代の王、丞代の神祇大祐大中臣頼行、兵部輔代の紀朝臣利世が昭訓門から入った。幄の南側に立ったのは、前例と同様であった。大臣が、式部省輔の代を召した。すぐに進んで宣しようとし、筥を執った。大臣は目止した。その後、少斂手は失儀が甚だしかった。大臣は、笏を前の机に置いた。筥を取って授けた。式部には二合、兵部には一合であった。二省が退いた。

    近仗を経由して、竜尾の東階を下りた。これを机の上に置き、戻って閣門を出た。外弁が敷いた後、大蔵丞伴忠則・散位佐伯保躬が閣門に就いた。この時、官掌及び近衛が頻りに来た。促して昇殿させた。すぐに報せて言ったことには「殿上の女官は座に就け」という。その後、侍従所に進んだ。ところが、女官はまだ上っていなかった。そこで、使者を遣わして催促させた。この時、帷を褰げた。すぐに殿に上ろうとした。まだ戸に参入することを詳らかにしていなかった。すぐに案内させた。
    外記が申して言ったことには「記文には、その戸を注記しておりませんでした」という。便宜に従って用いなければならない。すぐに重ねて近臣を案内した。蔵人頭修理大夫平随時朝臣の仰せにより、北面の東戸から入った。この時、外記は女官が座に就いたことを告げた。すぐに侍従刑部卿源清遠朝臣・少納言橘朝臣実利を率いて昭訓門に到着した。右侍従はまだ進んでいなかった。

    しばらく待った後、少外記三薗千桂が来て申して言ったことには「蔵人頭(平随時)が申して言ったことには『予定の時刻になりました。ところが、右侍従が遅参しました。左侍従が早く参ったのであれば、すぐに高座にいらっしゃらなければなりません』ということでした」という。
    答えて言ったことには「侍従が参入し、左右が斉進する。左侍従が早くに進んだとしても、右侍従が入り難くなることはない。ただし、勅旨があった。すぐに従って進止した。必ずはっきりとその宣旨を案内するように」という。千桂は、戻り去った。

    しばらくして来て、申していったことには「ご命令を頭朝臣に申しました。すぐに仰って言ったことには『執る所は、そうでなければならない。必ず早く右侍従を促すように』ということでした」という。

    しばらくして、装束史永方盛が来て申して言ったことには「蔵人が伝えて言ったことには『左侍従が早くに進んだのならば、右侍従がいなくても高座にいらっしゃらなければならない』ということでした」という。
    すぐに答えて言ったことには「前と今、伝えたのはこのようなことである。必ず千桂の案内に就くように」ということだ」という。もし史所が奉った後に伝えれば、すぐに従って独りで進むだけである。ところが千桂が奉ったのは、この後である。そこで右侍従が進んだ時、時刻が少し移った。

    この時、竜尾壇の下で雑人が闘乱していた。少刀で人を傷つけ、瘡を蒙った人は血を流した。下手人を追捕し、検非違使に託した。騒呼狼藉があり、諸陣はこの事のために騒ぎ乱れた。

    巳四刻、右侍従方が進んだ。すぐに共人が氈の上に就いた。右侍従四品行明親王は釼を帯びていなかった。式条と異なっていた。右京大夫源寛信朝臣はとうとう参らなかった。少納言代散位藤原朝臣村蔭は誤って庭中に立った。典儀は北に追上した。すぐに本毯に就いた。

    この時、天皇は冕服べんぷくを着用し、高座にいらっしゃった。
    ところが、両氏は未だなお門を開いていなかった。光景を差し移した。内使がその理由を問うた。両氏が申して言ったことには「門部に開けさせなければなりません。ところが、衛門陣が門部を送ってきませんでした。すぐにあの陣に伝えました。左方はすぐに扉を開きました。右方はまだ戸を閉ざしていました。右衛門陣の官人が申して言ったことには「故実を調べたところ、謂ったことには、門部というのは府の門部のことではありませんでした。これは、両氏が率いた門部です。姓を冒した蔵人は咎めました」という。すぐに初めて開けさせた。しかし、まだ見えなかった。両氏が壇上を下りる儀を告げた。

    これより前、佐伯氏がまだ開けていなかった。兵庫頭源朝臣忠幹が幄の下に到着した。北面した。内弁に申し、召鼓を打たせた。それでもまだ、門を開けなかった。そのため、群臣はまだ参らなかった。

    しばらくして門を開けた後、外弁で日の上卿である中納言(藤原)元方卿が参議二人、四位・五位の者を率いて参入した。六位以下の者たちが相次いで参入した。

    しばらくして、二省が叙人を率いて分かれて参入した。立ち位置を定めた。兵庫頭が大臣に申請し、鉦三下を打たせた。女嬬が翳を取って南榮から進んだ。少納言の後ろを経由して御前の間に入った。三行、翳を立てた。その東側に女嬬が進んだ時、少納言の前を経由した。すぐに戻る時を示し告げて、後ろから退かせた。

    初めて御座を定めた後、女官の伝者が左右を引き、帳を褰げて座を起った。〈右方は、有明親王の娘であった。〉私(重明親王)は目配せして左方の者に伝えた。闈司の人路清子がこの事を問うた。申して言ったことには「帳を褰げさせます」という。教令しなかった。侍が翳を奉った後、ここに至った。清子が伺候して進止した。すぐに目配せして進ませた。

    この時、右大将は御後に伺候していた。威儀命婦に命じて、進んで高座の側に起たせた。しばらくして座に戻った。式条を調べ、先例に及んだ。威儀は座を動かなかった。ところが、誤って記文を案内した。御前命婦が高座の下に立った。御座を定めた後、引き返して再び行ったのである。帳を褰げた者が、左右共に東西の階を進み昇った。歩いて御前に到着した。右方の進みが遅れている間、左方はしばらく右方を待っていた。共に起って帳を褰げた。女官が帳の内側からこれを手伝った。すぐに針縷を挿して結った。共に退いて、本座に戻った。〈女官がまた、伝えた。〉右方が帳を褰げて結んだのは、固くなかった。しばらくして、垂れ落ちた。〈聞いたことには「延長八年の時、右の帷もまた外側に褰げた。右の扉を転じた」という。疑問に思うべきである。〉

    翳を執って退いたとき、近仗が警蹕した。諸衛が伝蹕した。主殿寮・図書寮が順に進み、香を焚いた。〈まず、また焼くことは式条の意にないことである。〉典儀少納言源朝臣泉が両歩に進んで再拝を称した。賛者が承り伝えた。五位以上の者が先に拝した。六位以下の者がその次に拝した。
    宣命大夫中納言(藤原)元方卿が版位に進み、宣制した。文官が拝舞した。武官が旆を振った。式部大輔代大舎人頭維時王が二位〈右大将師輔卿〉を進叙した。三位〈右衛門督(源)高明朝臣。〉であった。少輔代玄蕃頭橘朝臣宗臣、次に四位・五位を進叙した。次に兵部少輔源朝臣済が武官を叙した。その後、叙人が拝舞した。二省の少輔は共に退いた。門を出る前に、典儀が再拝を称した。〈承り伝えたのは、前と同様であった。〉群臣が再拝した。その後、式部少輔代が叙人を率いて退いた。

    延長八年の先例を調べたところ、二省の叙人は先に退かなかった。群臣と共に罷った。もし早く退いて拝前にいたのであれば、少輔と一緒に出る。ところが、群臣と一緒に拝して先に退いた。進止について、拠ることはなかった。式条及び先例を調べたところ、再拝の後に左侍従が進んだ。叙人が閤を出るのを待とうとした。しばらくなければならない。そこで、出る前に進んで礼を称したのは承平七年の儀と同様であった。

    その後、兵庫頭が大臣に申請した。帳を垂らし、鉦鼓を打った。女嬬が翳を奉った。帳を褰げ、帳を下ろした。この時、諸陣が警蹕した。左方の褰帳係は本座に戻らなかった。女官が幔に入らせたのを伝えた後であった。〈式条と異なっていた。〉天皇が後房に還御した。所司が退鼓を打った。南側の列は動かなかった。

    しばらくして、侍従がすぐに昭訓門を北に出た。群官がまだ退かなかった。すでに式文に乖いていた。思うに、延長八年の記文によって侍従が先に出たのだろう。群官は文を罷った。何を以て得とするのかわからない。この時は、まだ終わっていなかった。

    申の刻、乗輿は内裏に帰った。暗くなってから帳を褰げ、宮中を退出した。
    叙位のついでに坊官がみな加階した。
    学士亮は二階を進めた。
    邦正王を従四位下に叙した〈この時、十三歳であった。〉
    諸官は諸司に下給する爵位をみな叙された。源氏は、国光であった。

    この日、昭訓門の外側にある休幕に、折敷九枚を以て膳を準備した。
    諸大夫もまた、板にのせた膳を下給した。その帳幕を褰げ、朱塗台六基・銀器及び女王膳を用いた。〈油絹の折敷があった。〉
    その朝乾飯には、様器を用いて台四基を準備した。従女はそれぞれ衝重の食事を下給した。
    その髪上料には、折敷十二枚、様器を用いて準備した。〈折敷があった。〉闈司の休所に送った。

    天慶九年五月一日〈大納言師輔〉が宣した、
    蔵人頭正四位下修理大夫平朝臣随時
    蔵人左衛門権佐従五位上兼守右少弁源朝臣俊
    従五位上守右近衛少将兼行近江介藤原朝臣敦敏
    正六位上式部少丞藤原朝臣光忠
    正六位上行縫殿助藤原朝臣守正
    文章生正六位上藤原朝臣扶樹
    文章生正六位上橘朝臣公輔
    以上七人は、禁色を聴する。
    殿上人は十八人。〈四位七人・五位八人・六位三人。〉
    以上、雑袍を聴する。〈同日、同じく宣した。〉
    典侍正五位下藤原朝臣潅子〈これまで通り禁色を聴す。同日、同様に宣した。〉

5月

  • 5月1日〈庚寅〉 開関/解陣
    ★九条家本『即位部類記』
    伊勢国・近江国・美濃国に開関使を遣わした。
    また、六府の陣・左右の馬・兵庫の警固を解き終えた。

  • 5月3日〈壬辰〉 興福寺の僧たちが参内して御即位を祝う
    ★九条家本『即位部類記』による
    僧都一人・律師五人・威儀師一人・従儀師一人が内裏に参入した。
    これは、御即位を慶賀するためである。

  • 5月5日〈甲午〉 叙位
    ★九条家本『即位部類記』
    前の春宮坊が印を返上し、局に納めた。
    また、女叙位があった。この日、男五人の叙位があった。

  • 5月13日 大嘗会の国郡を卜定/八省行幸の予定
    ★九条家本『大嘗会御禊部類記』
    「大嘗会の悠紀を近江国神崎郡、主基を備中国下道部に定められた」という。
    この日、内豎が来て、右大臣(藤原実頼)宣を称し、明後日の八省行幸に奉仕するべきだと仰った。

7月

  • 7月10日 朱雀院遷御
    ★『河海抄』巻第十三・若菜上
    太上皇(朱雀)が、朱雀院に遷御した。
    扈従の公卿及び非侍従・両馬助は座を柏梁殿の西対に下給した。

8月

  • 8月17日 朱雀院朝覲行幸
    ★『御遊抄』二・朝覲行幸
    朱雀院にいらっしゃった。

9月

  • 9月10日 中原助信の衣を裂く
    ★『源語秘訣』
    「詔して蔵人右衛門尉中原助信の宿直衣を裂いた」という。
    昨日の夕方、主上(村上天皇)が殿上にいらっしゃるときに侍っていた。
    助信は随身していた嚢中の衣を見せた。紅色は、すこぶる深い色であった。そこで、破ったのである。
    あるいは、言ったことには「宿衣の私物については、人主でないものは開いて見るべきである。すこぶる苛酷に渡る」という。

10月

  • 10月12日
    ★九条家本『大嘗会御禊部類記』
    右大相(藤原実頼)の書状に言ったことには「女御は御禊を奉仕しなければならない。その車取の物は、十人である。前例では、八人を用いた時、大翳・笠捧・壺は二つずつ、楊履・筥は一つずつ持った。ところが今回は、二人を追加した。その物を執るべきである」という。定まらなかった。

    あるいは、言ったことには「小翳を持つべきである」という。
    あるいは、言ったことには「行障を持つべきである。小翳は、馬具である。すこぶる便宜がないようだ。推量し、宜しく決定して示せ」という。
    報せて言ったことには「車執の物について、このような時の例を知らない。ただし、斎宮の車執の物は十二人である。八人は、命令と同様である。その他の四人は、大行障を執る。もしくは、あれに准じて行障を用いるべきであろうか。ただ、人数は二人が小行障を用いるのは如何であろう」という。

    また、諸大夫が叙位後の二・三年に資人代・度者を下給した先例を送って言ったことには「末遠朝臣が度者の文書を申請しました。蔵人頭朝臣が奏聞して言ったことには『下臈の大夫が下給し難いと仰られた』ということでした。そこで先例を調べたところ、多く二・三年の間に給わった者、もしくはこのようなことを決定して下されたついでに、重ねてその事を奏上されるのは如何でしょう」という。大将が報せて言ったことには「落ち着いて、すぐに奏上するように」という。

    この日、大嘗会の悠紀所の膳部の廻文が来て言ったことには「一品親王は五人・三品は三人・四品は二人である。晩方、内豎が外記の仰せを称した。明日の八省行幸に奉仕すべきだと告げた。よって、伊勢奉幣使を発向した。すぐに軽服を着用する障りを報せた。

  • 10月16日
    ★九条家本『大嘗会御禊部類記』
    右大臣(藤原実頼)の書状に言ったことには「勅によって、御禊の雑事を承り行う。ところが、親王に供奉すべき五人のうち、式部卿及び上野親王は障りを申した。これは、国家の大事である。病を助け、必ず供奉するように」という。
    報せて言ったことには「去る年から患っていた腰の病が、寒気に乗じていよいよ重くなった。今日のようであれば、甚だ馬に乗り難い。もしくは、救療して治るならば、必ず供奉するように」という。

  • 10月17日
    ★九条家本『大嘗会御禊部類記』
    御禊前第司の廻文が来て言ったことには「装束司史弁が伝え宣する。右大臣(藤原実頼)が宣したことには『供奉すべき親王以下五位以上は、宜しく催促して廻させよ』ということだ。親王五人〈式部卿・弾正尹・兵部卿・上野太守及び私(重明親王)である〉・中納言二人・参議五人である」という。
    すぐに、腰の病により供奉することに堪えられない事を遣わした。

  • 10月19日
    ★九条家本『大嘗会御禊部類記』
    夕方、蔵人式部丞藤原光忠が来た。
    勅を伝えて言ったことには「御禊行幸には、親王五人が供奉しなければならない。ところが、障りを申したと聞いた。他の親王はみな、故障があって扈従すべきではない。これによる欠怠には、便宜がない。必ず奉仕するように」という。
    報せて言ったことには「国家の大事には、必ず供奉しなければならない。ところが、御即位の日、病を助けて供奉している間に、かなり腰を冷やしてしまった。その後、時々発作があった。まだ治っていない。近頃、寒気に乗じていよいよ重くなった。辛苦は、かつてないほどである。非常に恐れ多いこと極まりない。もし病が治り、元気になれば、必ずすぐに相助けて奉仕する」という。

  • 10月20日
    ★九条家本『大嘗会御禊部類記』
    大相公(藤原忠平)に申させて言ったことには「去年から腰の病を患っている。御即位の日、病を助けて奉仕し、その最中にかなり腰を冷やしてしまった。その後、いよいよ病は寒気に乗じて倍増した。乗馬して供奉することに堪えられない。そこで次第司に報せにこのことを遣わした。
    先日、右大臣(藤原実頼)の書状があった。また、この書状を報せた。ところが昨日の夕方、勅があった。他の親王は障りがあるため、必ず奉仕するようにと仰られた。月頃、恐れることがある。今回、この仰せを蒙ったからには、喜んで奉仕するべきである。ところが、身体の病に堪えられない。そこで、そのことを奏上した。恐れ多いこと極まりない。また、諸王はみな障りのことを許された。病を患っていることを必ず天皇に知らせた。ところが、この仰せがあったのだ。もしくは、行いが不実であったのだろうか。いよいよ恐れ多くなってきた。けれども、身体は馬に跨ることに堪えられない。もし病が治り、平癒すれば、必ず供奉しなければならない。今日のようであれば、病が重くできることがない」という。

    公が報せて言ったことには「諸親王はみな、扈従する。必ず相儀を欠いてはならない。もし奉仕を尽くせば、還宮のときは奉仕しなくてもよろしい」という。

  • 10月28日 大嘗会御禊
    ★九条家本『大嘗会御禊部類記』
    前斎王と車を二条大路に立てて見物した。〈庇差・金作は各一両であった。檳榔毛は五両であった。板車は二両であった。〉
    午一刻、検非違使尉以下の者がこの路を巡検した。

    午二刻、村上天皇が鴨川にいらっしゃった。
    鹵簿・服色は、承平二年の時と同様であった。
    その次第司判官は執物があり、馬従はなかった。弾正台が詳しく番上し、糾弾した。同前次第司次官式部少輔紀朝臣在昌は、左衛門陣の纛旗の例を仆進した。隼人の陣中にいた。内器仗がないのは、承平の時と同様であった。

    また、衛門の馬副はなかった。親王以下に雨具があった。
    左兵衛代には、右京大夫源国淵朝臣を用いた。府督を後次第司長官としたからである。
    前次第司長官右衛門督高明卿が位服を着用した。〈先例では、当色を着用した。ところが今日は、行明親王・右大臣(藤原実頼)・前後長官の位服であった。〉
    馬副六人〈褐衣〉・馬従六人・執物四人〈以上、また褐色であった〉・随身門部六人〈前回、馬従の者がいた。馬副は見当たらなかった。ところが、大臣・前後の長官はみなこれを具していた。六位の者は、紅の布衫を着用していた。〉。漏器を領行しなかった。器ごとに御後の御前具の列にいた。甚だ式条と異なっていた。

    中務省の者が内舎人・侍従を率いて、節旗の前にいた。
    右大臣の馬従十人・随身近衛八人、次に侍翳、その次に無諳土風の者がいた。その親王は、前常陸太守・上総太守が鳳輿に扈従した。帷を褰げた。蔵人左少弁源朝臣俊が六位の蔵人を率いて御輿の後ろにいた。〈六位は、布の当色を着用していた。〉その頭修理大夫平随時朝臣、侍従、蔵人右少将藤原朝臣敦敏の親御輿に列をなしていた。後次第司長官左兵衛督庶明朝臣・次官兵部少輔源朝臣斉・右衛門督代右馬頭源寛信朝臣。これら諸衛の五位以上の者は、平胡籙を帯びていた。六位の者及び内舎人は、獦胡籙を帯びていた。後次第司の後ろには、闈司・女孺がいなかった。それから、諸衛の副馬の人々は蓑笠を着用していた。その後次第司主典式部省掌夾行教正は、理由を知らなかった。馬寮は、各五疋であった。

    女御藤原安子朝臣の車は、前駆の六位十人が白馬に乗った。五位十人が赤馬に乗った。車副十四人・車従十二人・取物十人〈二人翳・二人笠・二人捧壺・二人小行障・一人沓筥・一人榻であった。〉走孺十人(車副以下は皆、麹塵を着用していた。)

    次に伊予守(藤原)師氏朝臣の出車は、先駆の六位が八人・走孺が八人〈赤煮の唐衣を着用していた。〉・車副の手振は十人・取物は八人であった。〈行障はなかった。同じく麹塵を着用していた。〉

    次に右大弁源等朝臣の車は、前駆の六位が十人・走孺〈同上〉・車副であった。〈褐を着用していた。〉以上、女御・近親及び家別当が出したものである。

    次に糸毛の庇のない車が二両、檳榔の金飾が二両、同じく黒作が七両であった。〈前駆はなかった。〉

    未の刻、従車が従い終えた。朱雀太上皇は見物の御幕から院に帰った。童子は九人であった。〈白い橡を着用し、髪を結っていなかった。〉六位・五位は各五人、四位は四人が御黒作の檳榔毛の車を導いて駕した。六位の二人が御後にいた。皆、御厩の馬に乗った。
    康子内親王が同じく御幕にいた。帰る時は、他の路から院に入った。

11月

  • 11月18日 巳日節会
    ★『西宮記』前田家本・巻十一甲・臨時戊・大嘗会事・裏書
    丑の刻、召しがあった。
    私(重明親王)及び王卿は清暑堂の曲宴に参った。
    その儀は、堂の中央に御座を設けた。右側に置物机を立てた。
    御後ろ及び南の辺りに屏風を施した。
    軒廊に双行に王公の座を設けた。その南の横に侍臣の座を敷いた。
    主上(村上天皇)は、まず大床子にいらっしゃった。右大臣(藤原実頼)もまた、伺候した。王卿は順番に座に就いた。
    「勅して、酒肴及び管絃器を給う」という。

    その後、寅の刻になって禄を下給した。親王・大臣には御下襲・表袴が各一重であった。参議には、白い細長・袴であった。侍臣には、疋絹であった。

    これより前、右大臣が座を起って御酒を供した。伊予守(藤原)師氏朝臣が銚子を執った。しばらくして、私は大臣に勧盃した。巡り終えて、天皇はお入りになった。群臣は退いた。

    ★『西宮記』前田家本・巻十一甲・臨時戊・大嘗会事・裏書
    右大将(藤原師輔)が私(重明親王)に語って言ったことには「仁和の時の先例では、式部卿(本康)親王がこれを供しました。早く供されますように」という。答えて言ったことには「弾正尹親王が上座にいる。起って進むことは、そうであってはならない」という。大将はあの親王を催促した。親王が言ったことには「昇殿の人もしくは御□がこれを供すべきである」という。その後、私はすぐに机に就いた。「御挿頭を捧げ、御壇を昇った」という。

    ★『体源抄』巻八之上・和琴・和琴系図
    今日は、神宴であった。私は和琴を弾いた。

『吏部王記』の現代語訳シリーズ

天慶年間

▶ 天慶元年(938年)

▶ 天慶二年(939年)

▶ 天慶三年(940年)

▶ 天慶四年(941年)

▶ 天慶五年(942年)

▶ 天慶六年(943年)

▶ 天慶七年(944年)

▶ 天慶八年(945年) 

▶ 天慶九年(946年) ←今ココ

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集